「ヒ八六船団」の悲劇と苛烈な海防艦の戦闘 | 艦艇・船舶つれづれ

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「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

前回、靖國神社遊就館に「海防艦顕彰碑」があることを取り上げました。遊就館には海防艦についての解説がありますが、そこに「ヒ八六船団遂に還らず」という佐藤幹児氏の絵画が掲げてあります。著作権の関係でここでは掲載しませんが。

 

「ヒ船団」とは、シンガポール方面と本土を結ぶ大型・高速の護送船団のことを表します。主な任務は蘭印方面で算出する石油の本土への輸送で、フィリピン方面への増援部隊を送り込む軍隊輸送も行いました。個々のヒ船団の名称には、往路(シンガポール行き)の便に奇数、復路(日本行き)の便に偶数の番号が順次割り当てられています。

この中でも、昭和19年末に作戦を行った「ヒ八六船団」と「ヒ八七船団」は米軍機の空襲で壊滅した「悲劇の船団」とされています。そのうち、今回は靖國神社の絵画にある「ヒ八六船団」について、取り上げてみます。

 

「ヒ八六船団」の構成は

【油槽船・輸送船】

油槽船「極運丸」 10,045総トン

油槽船「さんるいす丸」 7,268総トン

油槽船「昭水丸」 2,764総トン

油槽船「大津山丸」 6,859総トン

貨物船「豫州丸」 5,711総トン

貨物船「永萬丸」 6,968総トン

貨物船「建武丸」 4,519総トン

貨物船「辰鳩丸」 5,396総トン

貨物船「優情丸」 600総トン

貨物船「第六十三播州丸」 533総トン

貨物船「豫州丸」(出典:「戦没船写真集」2001年8月、全日本海員組合、P97)

 

【護衛艦艇】

練習巡洋艦「香椎」

海防艦「鵜来」、「大東」、「第二十七号」、「第二十三号」、「第五十一号」

 

本来ならばこの船団に組み込まれない小型・低速の輸送船も含まれているため、船団の速度は9ノットほどで危険な航海となるため、護衛部隊は練習巡洋艦「香椎」を旗艦とした5隻の海防艦を配置することになりました。

まず船団は油槽船・輸送船のみで昭和19年12月30日、シンガポールから本土へ向け出港し20年1月4日には仏印(現・ベトナム)のサンジャック湾に入港、ここで護衛部隊と合流し9日に出港します。この日には米軍がフィリピン・ルソン島に上陸し、航空攻撃が予想されることから早期に同海域を抜けるため9日に出港し、潜水艦攻撃を避けるため水深の浅い沿岸を進みます。

この時期には前月の捷一号作戦(レイテ沖海戦)で帝国海軍の主力は壊滅的状況で、制海権・制空権共に米軍が抑えているため、航空機による護衛・哨戒等は期待できず、船団は自力で攻撃を避けなければなりませんでした。

 

1月12日午前7時前にクイニョン湾を出港して北上している際に、午前9時頃に敵艦上機3機に発見され、11時頃から艦載機の攻撃を受け始めます。まず「豫州丸」が攻撃を受け沈没、12時過ぎから18時頃まで延べ約150機による攻撃を受け、「永萬丸」が爆弾3発により12時20分に沈没、「大津山丸」は14時30分頃に擱座、他の船も次々と被爆炎上し自ら海岸に擱座します。最後まで残った「さんるいす丸」も午後4時に海岸に擱座し輸送船団は壊滅します。

攻撃を受ける油槽船「大津山丸」(推定)

(出典:Web「Naval History and Heritage Command」)

攻撃を受ける油槽船「極運丸」(推定)

(出典:Web「Naval History and Heritage Command」)

 

護衛部隊も、旗艦香椎は魚雷1発と爆弾2発を受け午後2時過ぎに後部弾薬庫に引火し爆沈します。「第五十一号」海防艦も午後2時16分に爆弾の直撃を受けた際に爆雷が誘爆、瞬時に爆沈、。「第二十三号」海防艦は行方不明となり沈没状況も不明で状態でした。残る3隻の海防艦はスコールに紛れてかろうじて脱出します。

攻撃を受け沈没する練習巡洋艦「香椎」

(出典:Web「Naval History and Heritage Command」)

 

今回取り上げるフネは海防艦「第二十七号」、「第二十三号」、「第五十一号」の属した「丙型」と呼ばれる海防艦です。

【要目(第一号就役時)】

 基準排水量:745トン、全長67.50m、最大幅:8.40m、吃水:2.90m
 機関:艦本式ディーゼル×2、推進軸:2軸
 出力:1,900馬力、速力:16.5ノット
 兵装:12cm45口径単装高角砲×2、25mm3連装機銃×2、3式爆雷投射機×12、爆雷投下軌条×1、

     95式爆雷×120、22号電探×1、93式水中聴音機×1、93式水中探信儀×1

 ※出典:世界の艦船「日本海軍護衛艦艇史」増刊第45集、No.507、1996年2月号増刊、海人社、P32

 

丙型海防艦「第十七号海防艦」(出典:Wikipedia)

 

大東亜戦争の戦局悪化により輸送船団の潜水艦や航空機による被害が激増したことから、大量の護衛艦が必要となった帝国海軍は、護衛用の艦として海防艦の増産を計画しましたが、それまでの海防艦では大量建造には大型すぎることから、小型かつ更なる簡略化した海防艦を計画・建造を始めました。

このうち、ディーゼル機関を搭載したものを「丙型」、タービン機関を搭載したものを「丁型」と呼び、「丙型」の一番艦は昭和18年9月に起工、昭和19年2月に就役しています。合計133隻の建造計画が立てられ、終戦までに53隻が完成していることから、量産性に長けていたと言えます。しかし過酷な戦場への投入により、26隻が戦没しています。なお、戦後に復員輸送用に3隻が完成しています。

今回取り上げた「ヒ八十六船団」で沈没した「第五十一号」「第二十三号」はどちらも昭和19年9月に就役していますから、就役後4か月で喪失しています。中には昭和20年4月15日に就役し、翌日に潜水艦による雷撃で沈没した「第七十三号」のような例もあり、「海防艦」の戦歴はあまり知られていませんが戦争の苛烈さを象徴していると思います。

 

攻撃を受ける海防艦「第三十五号」または「第四十三号」

(出典:Web「Naval History and Heritage Command」)

 

今回の靖國神社への参拝は、私の中では「海防艦」を通して戦争を考える機会となりました。