呉海軍墓地の軍艦「廣丙」遭難哀悼碑 | 艦艇・船舶つれづれ

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最近仕事に煮詰まってまして、気分転換をしなければ、とパッとお金も使ってみよう!と、再度呉への日帰り旅行に出発!今回は呉駅から少し距離があることから、これまで行くことができなかった「アレイからすこじま」と「海軍墓地」へ、そして「呉艦船めぐり」まで堪能してきました。

特に長迫公園の「海軍墓地」には多数の艦艇の慰霊碑があり、圧倒されました。その中で一つの慰霊碑に目が留まりました。その慰霊碑は「軍艦廣丙遭難哀悼碑」という名称でした。確か清国の巡洋艦だったような…、と思い帰宅し早速調べてみました。

 

呉・長迫公園海軍墓地の「軍艦廣丙遭難哀悼碑」

 

「広丙」(新字体を使用します)は、清国海軍の「広乙」型防護巡洋艦で「広乙」「広丙」「福靖」の同型艦3隻が建造され、清国で建造された最初の全鋼製(一部に鋼骨木皮との説あり)軍艦となりました。フランスの「コンドル」級をタイプシップとしたものの、当時の清国の財政状況から「コンドル」級の排水量1,240トンに対しひと回り小さい1,000トンとされました。明治24年4月に進水、翌年には就役しているようです。

日清戦争開戦の直前に北洋水師に編入され、明治27年9月の黄海海戦では別動隊として参加するものの戦闘にはほとんど加わることなく旅順港に引き揚げます。さらに旅順港が日本軍に陥落されると山東省の威海衛へ移動します。そのまま明治28年2月に清国海軍は降伏し、状態が良好であった「広丙」は利用価値が高いと判断され、呉に回航し整備されるとともに3月には帝国海軍の艦籍に入り、正式に帝国海軍の艦となります。

 

【要目(帝国海軍編入時)】

 垂線間長:80.5m、幅:8.0m、平均喫水:3.5m

 常備排水量:1,000トン、機関:横置式連成レシプロ機関×2、缶:円缶、推進軸:2軸

 出力:1,200馬力、速力:17.0ノット、乗員:160名

 兵装:12cm40口径単装砲×3、47mm単装砲×4、15mm機銃×4、36cm魚雷発射管×4

 出典:世界の艦船別冊「日本巡洋艦史」No.441、1991年9月増刊、海人社、P135

 

巡洋艦「広丙」(出典:「幕末以降帝国軍艦写真と史実」、1935年、海軍有終会 編、P63)

 

「広丙」は清国時代から機関の状態が悪く、日本への回航時に一時漂流したり、整備後の公試でもボイラーのパイプが破断するなど、機関に関するトラブルが続きました。ようやく整備が完了し明治28年10月から台湾方面の警備に就きましたが、12月21日に八単島に潜伏する清国主計官の逮捕と民情視察のため膨湖島島司他を乗せて馬公を出港したところ、倉島の南岸2浬の地点で未知の暗礁に触れ沈没します。帝国海軍の艦籍に入ってから1年を待たずに発生した事故でした。

この事故により犠牲となった笹村英介1曹ほか36名を悼んで亀山神社境内に明治29年5月に建立したものが、後に海軍墓地内に移され現在に至っています。

 

この海軍墓地は13万余柱の御霊が祭られており、「呉海軍墓地顕彰保存会」の方々により大切に管理されています。この墓地に祭られているのは、あくまで一部の艦艇のみではありますが、その圧倒的な存在感は大和ミュージアムとは異なる形での「戦争の真実」を痛感させられました。