女の私には理解しがたい時がある。
夫やパートナーに何時までも
“女”を意識させることが一番の防止方法と、
躍起になって美しさのレベルを上げる女性が
いるが、事の次第は、それほど
シンプルではないらしい。
例えばの話。長くなってしまうけど。
入社早々に社内恋愛をし
結婚退社をした友人がいる。
夫は一流商社マン。
将来を嘱望され、海外を渡り歩き、後に
誰もが憧れるマダムの街にできた
タワーマンションの一室を
彼女にプレゼントした。
ふたりの娘は大学付属の私立小学校に通わせ、
クラシックバレエやバイオリンを習わせる日々。
こちらも気圧されるほど
絵にかいたような家庭だった。
しかし妻は、ある時夫の異変に気が付いた。
家で脱ぐワイシャツのシワがいつもより多く、
猥雑に乱れていることが
この半年続いているという。
思い切って彼女は、
会社の前で夫を待ち伏せた。
夫を尾行する目的で。
高層ビル群が夕焼けに染まる頃
残業だと言って家を出た夫の姿を見つけた。
カバンを持つ姿は、朝出かけた姿と同じ。
「やっぱり残業なんて嘘じゃない」
雑踏に消え入る夫を見失わないように
小走りになった。
夫は家路に向かう路線の改札へと進む。
同じ車両の端から夫を盗み見ていたが
どうやら夫はこのまま家に帰る様子だと安堵した。
安堵した矢先、夫は家のある駅では降りなかった。
電車は川を渡り、東京とは言わないエリアに滑り込む。
小さな町工場や赤ちょうちんが並ぶ街に向かって、
夫は、開く車両のドアから飛び出していった。
小さな駅。小さな商店街。
名前だけは知っているその街を
二人で歩いたことなどない。
夫は慣れた足取りで商店街を歩き
いくつかの角を曲がって、
小さな路地にすいこまれていった。
小さな小さなスナックがあった。
妻は、今から自分が見るであろう
見てはいけない一部始終を目の前に
一歩も歩けなくなったという。
ひらがなで書かれた花の名前を冠に
紫のネオンがあやしく光る店。
わずかにだらしなくひらいた扉から
見えるスナックの店内は、
深紅ともピンクとも言えない紅色のビロードが
敷き詰められていた。
彼女は、そこに居なくてはいけない
義務感のようなものがあって
その商店街の片隅に佇み続けたらしい。
波打つガラスの窓の向こうに
夫らしき人影を見つけるたび
自分の喉だけが音を立てる。
やがて一組目の客が帰る時、
その店の扉が大きく開き
店主と見られる女が飛び出してきた。
けたたましく高い声で笑いながら。
たるんだ白い二の腕だけが妙に目立つ
黒いノースリーブシャツに
ヒマワリ模様のスカートに身を包んだ女。
酔っているらしい。
目のまわりを大きく縁取った
アイメイクがとうに崩れてしまっている。
40も半ば、緩んだ体を持つ女。
彼女は見逃さなかった。
その向こうに、ワイシャツの袖をまくりあげ
カウンターの中に入っている男の腕が
夫のものであるということも。
彼女は夫が出てくるのをずっと待った。
とうとう店のネオンが消え、その変わり、
長屋のようなその店の二階の部屋に、
薄暗い明りがついて
安いカーテンの向こうに人影が動いた。
夫の浮気相手は、昭和を思わせる
この場末のスナックの酒やけした女?
認めたくない事実を
突き付けられたまま部屋に
乗り込む勇気もなく
とうに終電もなくなったその街から
逃げるように帰ってきたという。
彼女は私に言った。
なにが許せないってなぜあの女なの?
私より年増の、浮腫んだ体の野卑な女。
私より格下の女に、なぜ夫は向かったのか。
なぜ私が格下の女に、
何もかも奪われるようなこの苦しみを
与えられなければならないのか。
どうせ浮気するなら、若くてかわいい子
だっていくらでもいるじゃない!
よりによって!よりによって!
彼女はまくしたて早口に語った。
完璧な横顔で、白く明るいその部屋で。
マンションのリビングには
燦々と日差しが入る。
今が春に向かっているのか、
秋なのか季節がわからなくなる、
そんな錯覚を覚える部屋。
眼下に水面が光る川が、
豊かな水をたたえてゆっくりと流れている。
そしてその川の向こうに、
夫が消えたスナックがある、あの小さな町が見えた。
「あの人は、毎日あの川の
向こうからここに帰ってくるのよ」
自虐的な微笑みに口元を歪めて彼女は言う。
憎しみのすべてを孕んだその瞳で
彼女は川向こうの
小さな建物の群れを見つめる。
一流と三流が、一つの川を挟んで
隣り合わせにあるこの街を
いったり来たりする男。
整った顔立ち、
日ごろの手入れは完璧な肌。
部屋着だって油断はならない。
女性誌に倣った賜物を手に入れた彼女。
そんな女が彼女が言う格下の、
三流の街に住む酒にやけた
年増の女に、生活の一部を
ゆっくりと侵食されていく。
私は、妙な理屈にかける言葉もなく
結局居づらくなって、
タワーマンションを後にした。
外気に触れて、じわじわと汗ばむ自分の肌に、
やっと季節や時間の流れを
取り戻し、駅に向かった。
ふと、彼女の夫が求めたものも
そんな実感なのではないかと思った。
格下と彼女が言い放った、
女と一緒にいる時間が、
夫が抑圧された自分を解放できるひと時であり、
汗と酒と煙草の匂いが漂うその小さな部屋でこそ
生きている実感を得られたとしたら。
そこに逞しく生きる女の体は、
一際価値あるものに見えたかもしれない。
綺麗であるだけのことなんて、
どうってことない価値に落ちてしまうんだろうか。
夫や、パートナーが
浮気をするならどの女がマシだろう。
自分より格上の女と
自分と同格の女と
自分より格下の女と。
彼女が格下と烙印を押した女は、本当に
格下だったのか・・・。
結局、何がいったい格下で同格で格上なのか
なんてわからない。
きっと女と男では、
いい女の“格付け”の定義が違っていて、
私たち女性が、その定義を理解していない内は
男はするりと手を放し、外に向かってしまうのかも
しれない。
そう思わされる出来事だった。