浅田次郎さん 『蒼穹の昴』、『珍妃の井戸』、『浅田次郎とめぐる中国の旅』 その1 | 短歌初心者 萬葉集 読書

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北京故宮博物院(紫禁城)で「珍妃の井戸」を見て浅田次郎さんを思い出した。


以下はBkog中国・北京 写真とEssay(36)  故宮博物院(紫禁城)-7 から流用。



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次は「珍妃の井戸」である。



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珍妃は清朝の11代皇帝、光緒帝の側室である。


通説では1900年に義和団の乱に加担した清朝が列強八ヶ国軍の攻撃を受けて北京から逃亡する


際、西太后の命で紫禁城楽寿堂の裏の井戸に落とされ亡くなったとされている。



光緒帝について(Wikipediaから引用し編集)


光緒帝は道光帝の第7子醇親王の第2子として生まれる。母は西太后の妹である。


同治帝が早世した後に権力保持を狙う伯母の西太后によって擁立された。


即位したのは3歳の時であり、当然実権は西太后が握っていた。


同治10年(1871年)のイリ問題、光緒2年(1876年)の琉球失陥、光緒11年(1885年)の清仏戦争に


よるベトナムへの影響力喪失、光緒20年(1894年)の日清戦争による朝鮮への影響力喪失など、相次


ぐ自国の不甲斐なさを光緒帝は嘆き、国勢回復を切望するようになった。


それゆえ康有為、梁啓超らによる変法運動への興味を強く持つようになり、西太后の傀儡から脱し、自ら


の親政により清の中興を成し遂げようとした。


光緒24年(1898年)に光緒帝は体制の抜本的な改革を宣言(戊戌の変法)。


しかしあまりにも急進的な改革に宮廷は混乱し、保守派の期待は西太后へ集まるようになる。


西太后は当初静観していたが、変法派の一部が西太后の幽閉を計画。


当初変法派に同調していた袁世凱は、変法派を裏切りこの計画を西太后の側近栄禄に密告した。


西太后は先手を打ってクーデターを起こし、光緒帝を監禁し、変法派を弾圧した(戊戌の政変)。


西太后は一時光緒帝の廃位を考え、端郡王載漪の子溥儁を大阿哥(皇太子)に立てたが、列強の反対に


あい光緒帝の廃位は断念した。


義和団の乱が勃発し8ヶ国連合軍が北京に迫ると、西太后は光緒帝を連れて西安まで落ち延びた。


その際に光緒帝の側室珍妃が西太后の命により井戸に投げ込まれて殺害された。


列強との交渉で、事件の処分は直接首謀者だけに限られ、北京帰還後も実権は西太后が握り続けた。


その後、西太后の主導で、かつての戊戌の変法と基本的に同じ路線の近代化改革である光緒新政が


展開されるが、光緒帝は終始西太后の傀儡にとどまった




   故宮博物院北部 位置関係配置図


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