みなさん、こんにちは。

ヴェロニカ麻由です。→

 

 

 

 

 

「これからは一人ひとりが自分で考え、

 自分で判断して進みましょう」

 

って、

 

私も書いてます。

 

 

そのためには、

判断材料となる情報などを、

自分で調べたりしなくちゃならない。

 

 

 

だって

「あてになる情報」、

 

これがそうなのか、

どれがそれなのか、

いま本当に、わからないものね。

 

 

 

 

 

ある意味、私はこの状況、

 

「よかったー。未来は明るいなー」

 

と思ってます。

 

 

 

 

 

エビデンス・ベイスドであるなら

「絶対正しい」(はずだ)

と市井の私たちが思いがち・・・

「思わされ」がちだった

医療・科学の分野でさえ

(むしろソコこそ)

 

言ってることが、

言う人によって全然違って、

諸説ありすぎじゃない?笑

 

 

 

で、

これまで「疑似科学」だのに対する

否定・排除の根拠だったはずの

論文やら臨床試験やら

規制の法の壁やらをブッちぎってでも

お薬、ワクチン、水に種子、

通っていくわけでしょ。ますます。

 

水銀入れて。

フッ素入れて。

ウイルス入れて。

ナノマシン入れて。

イデンシいじくって。

(お。綺麗な階段状になった。笑)

 

 

 

 

 

「学術論文」=正しいだなんて、

はじめからあり得ないよねと、

私はずっと思ってきた。

(ごめんなさい)。

 

 

 

 

カール・ホバーが言うように、

科学ってそもそも、

 

常に「反証可能性を残す」もの。

 

逆に言えば、

今のところは」反証されていない

仮説の集まり、が科学なわけで、

なかでも

「反証に対してきちんと反論できる」

ものが信頼性が高いとされてきた、

それが科学というものなわけです。

(ほんとにごめんなさい。笑)

 

 

 

 

そして、

論文の出自機関や

判定機関となるほとんどって、

誰が、何のためにつくった?

 

 

 

 

 

 

 

こういうことを、

今、多くの人が、

(この記事のような

ウンタラカンタラを持ち出さなくても

「感覚」として、

「理屈抜きの体感」として、

 

 

 

「今まで見てきたもの、

価値観の前提って、

一体なんだったんだろう・・?」

 

 

みたいなこと、

じわりじわりと感じることができている契機、

なんじゃない?って思います。

 

 

 

 

でもって。

 

 

生きる=死なない ために、

情報を探す状況

になっていますよね。

 

 

 

 

 

おかしくない?笑

 

 


 

 

生きて、死ぬのに。笑

 

 

 

 

 

どうして、

「生きる」ことに

情報が必要で、

 

どうして、

「生きる」ことが

サバイブなんでしょう?

 

 

 

 

何の(知覚できる)情報がなくたって、

うちのマンションの庭の樹の葉っぱは、

毎朝、時計もないのに

日の出の40分前に光合成をやりはじめ、

そこで生まれた「とれとれの酸素」によって、

鳥たちは目を覚まし

チュンスカピースカ、一斉に鳴き出すよ。

 

 

 

 

この方だって、

 

 

 

 

 

 

 

朝になれば眠り(え?)

昼になれば眠り(そうなんだ)

夕方も、夜も眠っていて(は、はぁ…)

それが自分の生き方だ、

って、何の情報も論拠もなしに、やってる。

 

 

 

 

 

 

あと。

 

 

 

感謝ね。感謝。

 

 

「感謝しましょう」って、いうけど。

 

 

 

 

上の「眠り姫」の方、

 

たぶん、

 

生まれてから一度も、

 

何にも感謝してない。笑

 

 

 

 

 

 

感謝。

 

湧いたら、

ただ湧けばいいと思うけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

「生きる」って、

ただそのまま。

 

 

 

 

これまでが、

おかしすぎたよね、やっぱり。

 

 

 

 

 

 

 

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