カトリックのお嬢様学校・聖フルール女学院にて。
小針先生「産休の日野原先生の代任の小針繭よ。数学担当だけどよろしく。
今日の数学は自習ね。昨日遅くまでクラブで遊んでたから眠いの」
シスター・クラレンス(右)「小針先生、今日の授業のことですがあれはなんですか」
小針先生(左)「叔母さん、固いこと言わないでよ」
シスター・クラレンス「学院ではシスター・クラレンスとおっしゃい」
小針先生「はいはい」
シスター・クラレンス「はいは1回」
小針先生「でもあたしのパパが理事長だってことは忘れないでよね」
あすか(右)「この学院の生徒でなくてよかった。あんなのに牛耳られたら…」
キラりん(左)「先生でも生徒でも同じことよ。このままずーっと自習が続いたら、私達どうなっちゃうのよ」
あすか「そ、そうか。数学が自習だと嬉しくてつい…」
キラりん「あすかっち、なんかいい方法ない?」
漆原先生「なんでだ?」
小針先生「むさいのはお断り。学院中、イケメンの若い教師で固めるの。毎日天国よ。イエス様が堅苦しい律法を全部ナシにしてくれたんだから好きなだけ遊べるわ」
漆原先生「そんな勝手許されると思っているのか。あんたそれでもクリスチャンなのか?」
小針先生「そうよ。でも退屈な朝のミサは省略してもらうわ。そうそう、共学にしたいわね」
グレイス先生(右)「あの先生ちゃんとしたクリスチャンなの?」
蓼科(たてしな)先生(左)「教会も理事長の力で洗礼受けさせたのかもしれないわ」
キラりん「マタイ伝第5章17!」
小針先生「それがどうしたの?」
あすか「われ律法また預言者をこぼつために来たれりと思うな。こぼたんとて来たらず、却って成就せんためなり。律法の一点一画もすたることなく、ことごとく全うせらるべし。この故にもしこれらのいと小さき戒めのひとつを破り、且つそのごとく人に教うる者は、天国にていと小さき者ととなえられ、これを行い、かつ人に教うる者は、天国にて大いなる者ととなえられん」
あすか「クリスチャンならこの意味がお分かりのはずです、小針先生」
あすか「これがお分かりでなければ私達はこの学校の先生とは認めません。クリスチャンだとも認めません」
シスター・クラレンス「お待ちなさい小針先生、わたくしもこの生徒と同意見です。学院から出て行きなさい」
小針先生「パパが恐くないの?叔母さん」
シスター・クラレンス「聖書も読んだことないクリスチャンなど論外です。お兄様には私からお話しします」
シスター・クラレンス「あなた方に借りは作りたくありませんでしたが…とくに高峰さんには」
あすか「模範生じゃなくてすみませんね」
シスター・クラレンス「あなたこそいま発言したとおりの律法を守ってもらいたい人ですが、今回のことに免じて学校はあなたを守ります」
キラりん(左)「あすかっち、数学の時間、あの先生に恥かかされないように、みっちり教えてあげるからね。小針先生の鼻をあかしてやりましょ」
あすか(右)「キラりん、目が恐い」
(-_\)(/_-)三( ゚Д゚)(-_\)(/_-)三( ゚Д゚)(-_\)(/_-)三( ゚Д゚)
珍しくまともなあすかっち。
キリスト教は「律法」にがんじがらめだったユダヤ教という宗教から生まれたのですが、キリストが人類すべての罪を背負って亡くなったことでユダヤ教の決まりである律法から解放されたと解釈する人もいるようです。実際にはそうではないようですね。ではなんのために罪を背負ったのかよく分からないところがあります。結局、「律法は守らなければならない」のならばユダヤ教とどう違うのでしょうね。
掟を積極的に破ってはならないということかな?
あと念のため。
カトリックとプロテスタントでは、カトリックが儀礼中心、プロテスタントが説教中心と覚えておいてください。カトリックの聖職者は神父と修道女で独身、プロテスタントは牧師で妻帯を認めています。
漫画などで「お祖父ちゃんは神父だったの」というセリフとか出てくるのは間違いです。神父は結婚出来ません。
口語聖書訳は以下の通り。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するのではなく、完成するためにある。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消えることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと教える者は、天国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするようにと教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」財団法人日本聖書協会「バイブルキューブ」新共同訳マタイによる福音書第5章17節より
※筆者は特定の宗教に帰依しておりません。
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