最近、キックボクシングが楽しい。「マスクを着けて運動するのは苦しそうだから嫌だ」というヘタレな理由でジムに行くのを拒み続け、会費を毎月しっかり払いながら家で毎週腕立て伏せをする生活を続けて1年以上経ち、4月下旬からジムワークを再開している。再開1発目は縄跳び3分で息が上がり、翌日は足の裏から脚、背中、腕、腹筋と全身筋肉痛に見舞われたけれど、やっぱり楽しい。先週は5年以上ぶりにレガースを着けてヘッドギアも要らないくらい軽めのマススパーをした。拳やスネがほんのり痛くなる感覚を味わうのも久しぶりだが、なかなか悪くない。

 

キックボクシングを再開したのは、魔裟斗さんが武蔵さんとのYouTubeチャンネル『ムサマサ』を開設し、それにハマったから。夜な夜なお酒を飲んで爆笑しながら『ムサマサ』動画を観ては、そこで言及されていた過去の試合動画をYouTubeで探すのが最近の楽しみだ。そうこうしているうちに自分自身もサンドバッグを叩いたりミットを蹴ったりしたくなり、今のところ週2回くらいのペースでジムに行っている。

 

そんな魔裟斗さんは自身のチャンネル『魔裟斗チャンネル』も開設している。『ムサマサ』より少し遅れてスタートした同チャンネルだが、さすが反逆のカリスマだけあって、登録者数はこちらのほうが多い。けれども、いわば〈カッコつけ〉に終始する魔裟斗さんに対して、ちょっと「う〜ん」と思ってしまうのが正直なところだ。全日本キックを離脱して自ら道を切り拓いてスターになった魔裟斗さんは、僕が人生において最も強く憧れた人物の一人である。そんな魔裟斗さんに、現役時代と同等のストイックさをもってスパルタンレース以外の何かに挑戦をしてほしいなんて言う気は毛頭ないし、そんな資格もない。でも、それならば代わりに、カッコつけるばかりじゃなくて時に自虐に走るくらいの余裕を少しは見せてほしい。2021年の42歳として、理解できないものをも許容し称揚するくらいの姿勢をポーズでいいから見せてほしい。約20年来の魔裟斗信者として、そう勝手に期待してしまう。

 

 

自分の中に魔裟斗ブームが到来して取り寄せた『ゴン格』魔裟斗ムック。ちなみに中高生時代は『格通』派でした。

 

 

魔裟斗さんが武尊選手と対談したと知り、楽しみ半分、「う〜ん」と思わされるのではないかという不安半分で再生ボタンをクリックした。期待どおり興味深い対談ではあったけれども、残念ながら不安も的中してしまった。

 

 

 

 

 

僕の「う〜ん」という気持ちは、千葉雅也先生が面白いくらい的確に代弁されていた。ちなみに千葉先生、僕と同じく約20年来の魔裟斗ファンだそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

繰り返すが、魔裟斗さんに、現役時代と同等のストイックさをもって何かを学んでほしいとまでは思わないし、そう言う資格もない。ただ、やはり「う〜ん」と思わされてしまうのは、魔裟斗さんが意識するとしないとにかかわらず、然るべき勉強を避けてきたからなのではなかろうか。

 

 

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ヒップホップやR&Bを聴くようになってTwitterで情報収集していて、新たに知った概念はたくさんある。ネオリベラリズム、マチズモ、ミソジニー、レイシズム、ルッキズム、マンスプレイニング、トーンポリシング、whataboutism、トキシック・マスキュリニティ…。どれも知れてよかったし、知っておいてしかるべき、なんなら義務教育で教えるべき概念だとさえ思う。

 

上述したもののうちネオリベラリズムについて、僕は十分に理解しているとはまだいえないけれども、それが僕のTLの多くを占めるリベラルで真っ当な人々の間で目の敵にされているものであることは十分に理解している。少し抽象度を上げて換言するならば、それは「自己責任兼弱肉強食正当化主義」とでもいえようか。そういえば、魔裟斗さんは2007年のブアカーオ戦に臨むにあたって「一番辛い道を進むのが一番の成功への近道」と言っていたけれど、あれもまたネオリベラリズムそのものではないにせよ、ネオリベラルな態度だな。

 

時々、ふと思う。自分がもしヒップホップやR&Bに出会っていなかったとしたら、上述した概念のどれだけを知っていただろうか? あるいは、日頃から本や新聞など活字に触れているけれども少し年配の方々は、上述した概念のどれくらいを知っているものなのだろうか? 今、自分がそれらを知っているのは、見聞を広める努力を続けてきたおかげなのだろうか? 換言すれば、それらを知るも知らないも〈自己責任〉なのだろうか? それとも、いろいろな事情が重なってたまたまそういう機会に恵まれた者だけが、上述した概念を知るものなのだろうか? いや、「機会に恵まれる」なんて言い方は荒唐無稽で、特権を持たぬ人々は否応なしに経験から上述した概念を知ることになるのだと理解しているつもりだけれども…。

 

 

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最近キックボクシングが楽しい、と冒頭に記したけれど、より正直に言うならば、最近は新譜を聴いているより『ムサマサ』を観たりサンドバッグを蹴ったりしているほうが楽しい。身体が明晰で爽快で慣れ親しんだものを欲している感覚がある。小さな事例にすぎないけれども、この感覚に抗うことが、実は魔裟斗さんが意識するとしないとにかかわらず避けてきた〈然るべき勉強〉なのではないかという気もする。今は一時中断気味のこの勉強を、僕はもちろん今後も続けていくつもりだ。

 

しかしながら、同時に、まさにその〈然るべき勉強〉が、今のネオリベラリズム批判と同様の感性をもって数十年後に批判されることになるであろう(と勝手に僕が思っている)新たなイズムへの迎合につながりうるものなのではないかとも思う。

 

 

先述した千葉雅也先生は、「肉体が強く、機転が利いて、かっこよくて、商売っ気もあり、歌って踊れる」現代のマルチタレント格闘家たちと魔裟斗さんとを対比し、以下のように述べている。最後には「やっぱり魔裟斗を応援するという結論になった」と。

 

 

 

 

「資本主義批判」なんて聞こえは良いけれど、単に〈然るべき勉強〉を怠ったにすぎない魔裟斗さんにそうした役割を期待するなんて、社会的特権に恵まれた男の夢想だと言われるだろうし、きっとそのとおりだろう。それでも、そうした指摘が孕む、今のネオリベラリズム批判と同様の感性をもって数十年後に批判されることになるであろう(と勝手に僕が思っている)新たなイズムを、僕は無視できずにいる。こうした態度がいかに空想的でwhataboutisticだと言われようとも。