*2018/08/26追記
 
フジロックでのケンドリック・ラマー来日で、『To Pimp A Butterfly』の解説記事に多数アクセスいただいているようです。ありがとうございます。ということは、同記事にリンクした本記事も、少なくない方が読まれているのではないかと思います。ケンドリックが「The Blacker The Berry」で表現したことには称賛以外ありませんし、以下に記した意見は今もおおむね変わっていませんが、今だったらこういう言い方はしないなと思う箇所があるので、追記させてください。
 
その箇所とは、「声高に『差別反対』などと叫ぶ時代はとうに終わっているべきであり」の部分です。理想を言えば、「声高に『差別反対』などと叫ぶ時代はとうに終わっているべき」だと今でも考えますが、現実がそこから程遠いことは明らかです。可能な限り北風よりも太陽のような姿勢でいたいですし、差別と戦うよりも、差別を生み出すような社会の構造を、ポジティビティをもって改善していきたいです。しかし、2016年9月にLAを旅行中、決してポリティカルな会話を好むわけではない黒人の友人2人が会うやいなや、「また黒人が警察に殺されたってよ」とシャーロットで黒人男性が射殺された事件について会話を始める様子を目の当たりにして考えを改めました。彼らの安心して暮らせる社会の実現に向けて戦う行為は、当事者でない私が安易に口出しすべきものではないと感じました。
 
特にご指摘を頂いたわけではありませんが、今の立場を明らかにする意味を込めて、ここに追記させていただきました。私は引き続き私なりのやり方で、微力ながら彼らの言葉を伝え、理解や関心や感動を広めていく所存です。
 
 
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一言一句正確に記憶しているわけではないが、予備校時代、現代文の講師が次のようなことを口にしていたのを覚えている。
 
「ヒューマニズムは常に差別と共にある」
 
ここでの「ヒューマニズム」は広義でのものであり、「広く他者を大切にすること」くらいに置き換えてもよいかもしれない。このことを説明するのに、件の講師は2006年W杯決勝戦でのあの一件を引き合いに出した。「売春婦の息子」呼ばわりされた、ジダンの頭突き。「売春婦の息子」呼ばわりは酷いだの、何故我慢できなかったのかだの、様々な意見が飛び交ったが、その最中で沈黙を強いられていたのは他ならぬ売春婦ではないか、と。
「売春婦の息子」は英訳すれば"Son of a bitch"であろうか。であるならば、同氏が自説の論拠としてジダンの件を引き合いに出した判断は正しくないのかもしれない。しかし、言わんとすることは十分に理解できるものであった。何者かを枠の外に追いやることなしに、ヒューマニズムなどありえないのだと。

Kendrick Lamar - The Blacker The Berry



グラミー賞受賞翌日にKendrick Lamarが発表した"The Blacker The Berry"は、90年代を代表するラッパーの一人である故2Pacを知る者にとって、すぐさま"Keep Ya Head Up"を想起させるものであったに違いない。しかし、"Be Alright"使いのレイドバックしたトラックに女性を励ますポジティブなリリックを乗せた後者に対し、前者は暗めのビートの上で、ともすればネガティブともとれるラップが展開される。黒人(彼は珍しく"African American"という言葉を使うのだが)であることを前面に出し、ステレオタイプを列挙する。「お前らは俺のことが嫌いなんだろ?」なんて言葉が飛び出したりもする。1バース目で黒人文化を壊滅させんとする社会や人々を糾弾したかと思えば、2バース目では成功するとしないとに関わらず黒人が直面する問題を指摘する。そして、3バース目では、黒人による黒人への犯罪、いわば"Black-on-black crime"に言及する。全バースの冒頭で彼が言う「俺は2015年最大の偽善者だ」という言葉にどこか引っかかりながら聴き進めていくと、最後に次の一節が待っている。
 
So why did I weep when Travon Martin was in the street?
When gangbanging make me kill a nigga blacker than me?
(何故俺はトレイヴォン・マーティンが死んだ時に泣いたんだ?
 俺もギャングバンギングで自分より黒い奴を死なせてるっていうのに)
 
彼が繰り返してきた「偽善者」とはこのことか、とリスナーはここで気付かされる。この一節は解釈の余地を多分に残すものの、Kendrickが以前Fergusonの一件に言及した際に放った「自分自身をリスペクトしてないのに、どうやって他人にリスペクトしてもらうっていうんだ?デモや暴動じゃなくて、まずは自分の内側から始めないと」という言葉を思い起こさせる。警官による黒人の殺害が相次ぐなか、全米各地でデモが広がったが、Kendrickはその動きにやや懐疑的なのかもしれない。警官が黒人を射殺するや否や、それ以上に自分たち自身が殺し合っていることを忘れ、#BlackLivesMatterなどと騒ぎ出すのは、「偽善的」だと。
 
私がこの曲を全て聴き終えた時に思い出したのが、冒頭の予備校講師による言葉であった。「リベラル」と称される人々の中には、自らのもつ偏見に無自覚な者も少なくないのではないか、と私は常々考えている。それもまた偽善である。そういうお前は何様だ、と言われれば、私は沈黙するより他にないのだが。ただ、声高に「差別反対」などと叫ぶ時代はとうに終わっているべきであり、これからは、誰もが(自分自身を含めた)何者かをヒューマニズムの枠の外に追いやっているという事実に目を向けるべきなのかもしれない、と思う。
 
Kendrick Lamarという一人のラッパーが、陳腐な「黒人対白人」のようなテーマに終始せず、このようなことを楽曲として発信してくれたことに、私は強い興奮をおぼえた。