3月20日、亡くなった母の夢をみた。
夢の中の母はまだ未練や後悔、心配などの想いにとらわれていて、
この世への執着にどっぷり浸かっているようだった。
夢の中では母とワタシ以外の家族もいたけれど、
母の姿をみることができたのはワタシだけだった。
母の姿をみることで、母の深くて大きな悲しみを自分の内側に感じたワタシは号泣していた。
泣きながらもなんとか母を慰めようとお茶を淹れて母の前に供えたんだけど、
母にはそのお茶が見えないらしく、
今度はテレビの横に移動して膝を抱えて座った。
高齢者が床の上に座るなんて、みるからに尋常じゃない光景💦
その異常な様子をみてワタシは、
母が自分の想いにとらわれすぎていて、生きてる者からの慰めに気づかずにいるのが分かった。
夢の中の母は、明らかに生きてる人間とは異なっていた。
ジメジメとした湿度の高い空気感をまとい、
顔の表情はうつむきがちで、存在全体が暗くて重かった。
生きてる間は肉体があるから、自分の世界を他人や起る出来事を通して体験できるけれど、
ひとたび死んでしまえば肉体を通した体験が出来ない。
自分の世界にひとり生きて、丸ごと自分を体験するしかない。
他人や自分を取り巻く世界、そして起る出来事といった幻想は消え去り、
本質である自分だけを直視しながら体験することになる。
ひとつの丸い球の真ん中にワタシがいる。
その球の内側には様々なモノがみえる。
360℃どこをみても他人がいて、異なる環境があって、何かが起っている。
真ん中のワタシは魂となって肉体の内側におさまり、
自分を取り巻く様々なものを体験している。
ところが死を迎えて自分の肉体を失うと、
肉体に収まっていた魂がどんどん大きく拡がっていき、
やがてその丸い球がめくれるんだ。
つまり、
内側が外側になり、外側が内側になる。
それは、自分が世界そのものになるってこと。
自分が丸い球そのものになって、
外側にあると思っていた他人や環境、起る出来事をすべて抱えて体験する。
これがワタシの死生観。
いつの頃からか、ワタシは生きるコトや死ぬコトをそんな風に捉えるようになり、
生きてる間に自分と仲良く手を繋げるようにならなければならないと思うようになっていった。
ワタシは長い間、自分のコトが大嫌いだったし信用してもいなかった。
だからこそ生きてる間に、なんとしてでも自分と仲良くならなければと常に思っていた。
そうやって日々を体験してるうちに、とうとう自己受容できるまでに成長し、
やっと最近自分のコトをまるごと愛せるようになっている。
自分を100%受け入れてゆるし、愛せるようになったコトで、
他人に対しても寛容になることが出来ている。
どんな出来事や状況にも完璧さを疑わないでいられるから、生きるのがラクになっている。
ところが母はどうだろう??
生前母は神や仏、ご先祖さまたちを熱い想いで信仰していたようにみえていたけれど、
ワタシにはそれが信仰心からではなく、強いおそれからのように思えていた。
つまり、いい子にしていれば守ってもらえるだろうというような心。
それがワタシの目にはどうしても、フェイクな信仰心にしか映らなかったんだ。
世界には善も悪もなく、
間違いも正しさもない。
あるのは想いだけだし、
それはつまり愛。
何が起こってもそこには必然的理由を伴う完璧さが存在するからこそ、必要なのは優しさ。
正しい判断というものをこの上なく大切にしていた母の世界には、
純然たる正義があり、純然たる不義が存在していた。
その純然たる不義にワタシも含まれていた。
ふぎ
【不義】
- 正義・道義・義理に反すること。「―のいくさを仕掛ける」。特に、男女間の、道にはずれた関係。
正しいと判断したものには最善をつくし、
不義だと判断したものには容赦ない態度をとる。
この物質的三次元世界を絶対のモノだと認識すると、
こういった態度になるのは当然のコト。
けれど三次元世界は、宇宙に存在するひとつのかたちでしかない。
本質の世界には正邪が無いのだと知り、
目に見える世界の背後にある必然性を疑わずにいるコト。
これが真の宗教だと思うし、
これが肉体を持ちながら生きて出来事を体験する理由なのだとワタシは考えている。
母の世界でワタシは不義の存在であり、
だからこそ容赦ない態度でワタシに接していた。
これに長く苦しめられていたワタシ💦
肉体を失った母は今はじめて、三次元世界とは別の世界を体験している。
肉体を失っても生きているんだということを学んでいる。
それは確かに不安とおそれそのものであるだろうし、
これまで絶対のモノだと信じて疑わずにいた三次元世界への執着心を断つのは、
簡単なコトじゃないだろう。
四十九日を前にして夢で母をみたワタシは、
母の浄化はまだまだだなと感じていた。
3月25日の月曜日に母の四十九日を迎え、
翌々日のきのう父親と弟とワタシはユタの知念さんに会いに行った。
沖縄では人が亡くなると、故人の想いなどを伺いにユタのところへ行く。
母の現在の意向を強く知りたいと思っている父は、
知念さんを通して母の気持ちを知りたがっていた。
知念さんはワタシたちをみるなりすぐ、
「なぜか心臓がドキドキして痛いんですけど、何かありましたか?」と聞いてきた。
聞くと、ワタシたちが家に入るなりすぐ痛みを感じていたのだそうだ。
その切り出しに父が、母が亡くなったコトを告げた。
生前、何度か知念さんにお祈りをお願いしていた母は、彼女の力を信頼していた。
それもあって母は最初から知念さんに、
溢れんばかりの想いを伝えてみせていたようだった。
知念さんは母が亡くなったコトを知り、大変驚いていた。
「お母さんはまだこの世に未練があって、浄化しきれてない様子ですね。
本当なら四十九日前に来てもらい、
お母さんの想いを伝えて四十九日の法要に臨めたらよかったんですけれど。。。」
この言葉に父が
「四十九日が終わって、先祖のみなさまのところに迎えられているのではないですか?」
と質問した。
「いいえ!いいえ!
こんなに早く成仏することは無いですよ。
先祖のみなさまのところに行けるのは、早くても七回忌あたりになります。」
と答えた。
亡くなったばかりはやはり、この世への強い思いにとらわれすぎて、
成仏には至らないのだという。
ここでワタシがみた夢の話を伝えると、
知念さんはワタシがみたのは今現在の母の状態そのものだと言った。
そしていきなり、
「お母さんはあなたが家業である会社で、その才能を活かすことを願ってますよ」
と話した。( ゚д゚)エッ
「心を尽くした料理で人々を慰めるコトができる力を、
ぜひ社長である弟の下で発揮してほしい」
。。。母が言い出しそうなコトだなと、苦笑いしてしまった。
生前の母はワタシの才能を薄々認めながらも、
ワタシの仕事を認めることはなかった。
2017年の8月から2018年の3月まで家業の葬儀屋さんに従事していたけれど、
ご遺体を扱うコトにまったく向いてないワタシは、
5年は会社にいるようにと弟に言われていたにも関わらず、
わずか8カ月で辞めてしまったのだった。
理由は、ご遺体に触れるコトで故人の想いをまるかぶりしてしまうから。。。
つまり憑依体質のワタシは、故人の想いに負けてしまいがちだったのだ💦
そういうワケで弟は、ワタシをまったく信用できない人間のカテゴリーに分類し、
父や母と同じようにワタシを不義とみなすようになったのだった。
そんな家族関係でワタシが腕をふるえるワケないのは分かりきっているんだけど、
肉体を失った母はひとりの世界に生きてるから、
会社の発展のコトしか考えてないんだろう。。。
その想いはかなり強いものらしく、
けっこう長い時間をかけて母は知念さんを通してワタシを説得しようとしていた。
「心を尽くした料理で人々を癒やすというコトは、
最近ワタシが常に意識しているものなので、母の言うことも分かります。
だけどワタシは、自分の活動の場を完璧に委ねようと思っているんです。
ワタシを必要としてくれる人や場所で、導かれるままに仕事したいと思っています。
母がもしワタシを家業に迎えたいと願うのなら、
母の方からもこの世界に働きかけてもらい、実現するように取り計らってほしいです。」
母の想いが強い分知念さんの口調も強い調子になっていて、
ワタシはなんだか責められているように感じてもいた。
だから母に対して、要望を上記のように伝えたんだ。
これを聞いた知念さんが弟に確認する。
「あなたは社長としてサヨちゃんを会社に迎えることをどう思っていますか?」
弟は「少しだけ働いた事あるんですけど、向いてないようですし。
私は姉を迎えようとは考えられません。」
これを聞いた母は諦めたのか知念さんを通して、
「それならばぜひ、常に念頭に置いてほしいんですけど、
心を尽くした仕事を社員さんたちにも伝えるようにしてください。
お母さんはその事をとても心配しています」
と伝えて、それ以上ワタシを説得しようとはしなかった。
このくだりで母が未だに会社のコトを一番に考えているのが分かった。
やれやれ。。。(ㆀ˘・з・˘)
だから成仏できずにいるんだと思うよ。
自分の想いに没頭してしまうと、すべてをありのままにみることができなくなる。
ありのままの完璧さに気づかずに、肉体を失っても判断し続ける。
これこそが未練であり執着であることに、母はまったく気づいていない。
肉体を失って経験の機会が無い以上、
母が自分の想いを手放せるようになるまでには、だいぶ時間がかかるだろうな。
ワタシは母をなんだか憐れに思っている。
意識の階層はまさに無限。
無数の階層のどこに焦点を合わせるかは心しだい。
心境という心の鏡の傾きにより、
意識の光が向かう方向が決まる。
つまり、心境が変わることで体験する現実が変わる。
生きてる間にこの真理を知ることが、とても大事だと思うんだ。
目に見えるモノがすべてだと認識していると、
生きてるコトが不安そのものになってしまう。
不安から何かを所有したがり、
所有してるモノを増やすことに邁進しがちになる。
失うことをおそれ、
常に何かが不足している気がして落ち着かなくなる。
この漠然とした不安を解消しようと、保証してくれそうなモノに頼りたくなる。
それが人間関係にも強く影響する。
でも目に見えるモノはすべて、幻でしかない。
すべてが主観的な超現実であり、
客観的なモノなんか何一つないのだ。
だから善とみなせば善を体験し、
悪とみなせば悪を体験する。
客観的な善や悪はどこにもない。
だからこそ、どんな出来事や状況にも善をみようと努めたいし、
起る出来事の完璧さを疑わずにいたい。
自分が何かを為すというのも幻想だから、
無我の境地で起る出来事を敬いつつ喜んで受け入れたい。
それがどんな出来事であっても。
これはきっと誰しもが一生をかけて成そうとする大きな仕事であり、唯一の仕事だと思う。
「優しくできなれけば、生きる価値はない。」
これは京都大学原子炉実験所助教授 の小出さんの言葉。
正しさではなく優しさを。
母を看取る今回の旅で、この言葉を何度も噛み締めている。