今日突然、東京の友人が亡くなったと連絡があった。彼とは昨年の春に、三軒茶屋で出会った。
初めて会った時からとてもワタシのコトを心配してくれたり、気遣ったりしてくれていた。
酷暑の中で長時間調理するワタシに、何度も差し入れを持ってきてくれたりもしていた。
彼には精神的に不安定なトコロがあって、その危うさはいつも感じていたんだけど。。。
ワタシも自分が壊れたコトがあるから、精神的に病んでる人の気持ちはよく分かる。
病んだ経験の無い人には、分からない世界がある。
ワタシが病んでた時、すべてが灰色の世界に見えていた。
自分で自分のコトを持て余していて、周りの人にすがりついていた。
ワタシの場合はありがたいコトに、助けようとしてくれた人がいたから救われた。
あの灰色の世界で、ワタシは自分の手に負えない自分を放り出そうとしていた。
自分を見放す寸前までいった。
踏みとどまれたのは、ワタシを心配してくれた人のまっすぐな思いだった。
その経験があるから、
落ち込んだ彼が深夜に電話かけてきたとき、話を聞いたり意見を口にしたりしたんだけど。。。
とはいえ、彼の死因が何かは分からない。
人は誰でも、自分が死ぬコトについては何も関知していないと思い込んでるけれど、
死因やそのタイミングも含めて全部、自分自身で決めているのだという。
それは無意識の領域で行われているのかもしんないけれど、自分ですべて決めているのだそうだ。
考えてみれば当然かもしんない。
人生で起こることはすべて、
自分の力の及ばないところで決定されてるんだと思うコトはできるけれど、
その前提でいくと人生は不確かなものにしかならない。
不確かな人生を生きる意味とは、なんだろうか。。。
振り返ると、
ワタシが病んで壊れてたときって、
その不確かな人生を生きるというコトの意味を日々体験していたように思う。
「不確かな自分が日々、不確かな決定をするから間違いだらけの人生になるんだ。。。」
あの頃のワタシはそんな風に思っていて、誰かの導きを強く求めていた。
歩くときには右足からが正しいのか、
左足からが正しいのか、
歩き方からすべて教えてもらってやり直さなければならないと思っていたんだ。
でも、今のワタシはその前提には立たない。
無意識の領域で決定しているからワタシが認識することはできないにしても、
ワタシ自身が人生で起こるすべてを決定しているのだという前提に立ちたいと思っている。
ということは、何もかも自分に責任があるんだということ。
どんな出来事も、誰のせいにもできない。
どんな出来事に対しても、傍観者の立場をとることはできない。
それが、生きるというコトの責任なんだとわかった。
すべての出来事はゆるされて起こっている。
このコトがハッキリとわかると、
どんな自分であれ、それとして生きるしかなくなる。
理想の人生を生きるために努力するのではなく、
どんな人生になろうとも、これが自分の人生なんだとすべてを引き受ける。
そのために努力したい。
どんな人のどんな命も、ワタシは芸術だと思っている。
他人からどのように見えていても、生きる本人にとってはすべてが芸術だと思う。
その生涯をもってどんな芸術を表現するかについて、他人がとやかく言うことではない。
みんなそれぞれ、自分だけの表現をしてる以外にはないんだ。
3月11日に亡くなった友人に、心から感謝の気持ちを伝えたい。
出会えたコトに感謝だし、ワタシに向けてくれたその優しさにも感謝してる。
まだそのお返しをしていなかったのに、彼はもうこの世にはいない。
心からご冥福を祈ってます。