この続きです。

土曜の夜ですが、それほどの人通りもなく。


お土産屋さん覗いてみました。トナカイにエルクの缶詰までは驚きませんが、ビーバー🦫!

中身が水分判定されると空港で没収なので買いませんでしたが。




ここが旧市街の広場のようです。右側が市庁舎、左がカトリック教会です。

リトアニアは熱心にカトリック国(この辺はポーランドと文化的にも近いのですね)なのですが、カーニバルを祝っている気配はなく。


レストランも歩きながら見ていたのですが、イタリアンが多くて、あとはバーのようなのが多く、歩き回った末に見かけたリトアニア料理屋に。


チェーン店のようでしたが、内装が可愛らしかったです。


ビールと前菜に豚の耳ときゅうりのピクルスを。豚の耳の燻製はリトアニア名物だそうです。ビールが進む。


メインはツェッペリナイという、じゃがいも団子の中に肉が入っているやつにしました。

飛行船のツェッペリンの名前から料理名が来ているのですが、北国らしいリトアニア名物です。


ビールもお代わりして、早起きもあってホテルに戻ったら速攻で爆睡でした。


翌朝の朝食。日曜なので8時半から。


三つ星ホテルなのでさほど期待もしていませんでしたが、だいたい何でもあるような。卵だけは見当たりませんでした。


こんな感じで、昼を食べ損ねても何とかなるようにしっかり目に。


カウナス発は15時少し前の電車にしていたので半日街巡りです。

杉原ハウスは、冬季日曜休館と思っていたら、開館になっていました。念願達成(下調べしてからチケット手配しろよって話ですが)11時開館なのでそれまでもう一度旧市街に。


川を渡ったところにケーブルカーがあって上が展望台とのことで、バスで行ってみます。

アプリに運賃をトップアップして、QRで読ませて支払う中々良く出来た仕組みでした。


90年ほどの歴史があるケーブルカーはこのようなマッチ箱のようなやつで。運賃は片道1€でした。


運転手さんがコーヒー飲みながら運転するようです。


客はもう1人だけ。どう考えても赤字ですね。


30秒ほどで上に。展望台と、大学の校舎がありました。三脚はオブジェで、ファインダーに昔の風景写真が入っていました。


旧市街を臨みます。


帰りは階段を降りて。2台のケーブルが交差するところ。運転手さん、一日中短距離を上がり下がりする仕事なのは、ある意味大変だなあと。


橋を渡り、旧市街に。このゴシック建築はカウナス有数の中世の建物だそうです。教会でなくお金持ちの館として建てられたとか。中の博物館は休館中。


朝に見る市役所。


5分ほど歩いてカウナス城址に。


中世建築ですが、エストニアのタリンの砦と何となく似ているような。


ここも博物館があるのですが、冬季は日月お休みでした。今回行きたいところの休みが多く、北国にシーズンオフに行くのは静かで良いですが、見るところが結果多くないという。


城跡から杉原ハウスまでは約3キロ、半分くらいはバスに乗って、向かいました。

当時のリトアニアの暫定首都だったカウナスにあった日本領事館の建物がそのまま記念館になっているのですが、丘の上の住宅地にありました。


道標はしっかりしています。


到着。リトアニア語と英語の説明版が。


以前は地下室から入るようになっていたそうですが、展示も徐々に充実して、玄関から入るようになっていました。


一階がオフィスで上階が住居で家族で住まわれていたそうです。領事館として機能した時期は短く、杉原千畝氏が唯一の領事(正確には副領事)だったようです。40年にはソ連に配合、その後ナチスに占領となっていく国ですので。


執務室の復元にはオランダ領事代理の部屋もありました。杉原千畝氏が発行したのは通過ビザ、前提になる目的地のビザは、オランダ領キュラソーやスリナムで、これをオランダ領事代理が発行していた縁のようです。当時オランダは既にナチの占領下にあったので亡命政府の公館だったのか、詳しい事情は調べていませんが。

当時ナチスの蛮行に気がついていた他国の外交官は危険が迫っているユダヤ人を救うためにかなりの尽力をしていて、その最終段階で日本が短期間ですが手を貸したという解釈をしました。そのタイミングでトルコがビザを出さなくなり、シベリアから日本経由するルートが唯一の脱出ルートになっていまい、結果ビザ発給希望者が殺到したという事情だったようです。日本も軍部やその追随者はナチの利害に反する行為を良く思ってなかったはずですが、要件を満たすことが証明できる人には通過ビザを発給するのは許されていたので、当時の外務省は軍部の影響力を一定量排除できていたと解釈できそうな気がします。


これが杉原千畝氏の執務室復元。


約一週間で2,000以上の通過ビザを発行したそうですが、そのリストも展示されていました。(コピーとは思いますが)


これがビザの現物コピー(右上部分)。かなりの手書き部分があり、これを一日300通1週間書き続けたとは。



さて、命のビザは日本政府の意に背いてという説明をよく目にしますが、それは事実と異なるようです。彼も官僚ですし、政府の命には背いておらず、到着地の入国許可や十分な現金があるという要件を満たすと発行できるという状況だったわけで、日本政府はユダヤ人迫害に関してはナチに与していなかった訳です。


とはいうものの、判断に迷うケースは良心に従い発行していて、松岡外相名で日本に着いたユダヤ人が十分な資金がないケースもあり困っているので、しっかり確認するようにという公電がありました。離任後カーニングスラード、プラハ、ブカレストと任地が変わっていて、戦後に(少なくとも正式記録の上では)依願退職するまで外交官として在職していたことからも、44年に勲5等を授与されていることからも、当時の日本政府は彼の行為そのものを命に反し懲罰すべきとは考えていなかったはず。


とはいうものの、おそらく最後の一週間はノーチェックでひたすらビザを発行したのでしょう。これは問題視される可能性は大いにあったはずで、後世の外務省トップが、それなのにヒーロー扱いされている彼を毛嫌いしていたのはその辺りが理由なのでしょう。強引に名誉回復の労を取ったのが鈴木宗男というのが面白い。





小さな展示でしたが、20分ほどのビデオも含め1時間強在館しました。気がつけばお早過ぎになり、ランチ場所を探しつつ荷物を預けていたホテルに戻ります。


歩行者天国の起点にあった、ビザンチン風の教会。日曜ですし、中に入るのは遠慮しました。


このようなまっすぐな道が1.5キロほど続いていて自動車通行止めになっていました。ホテルはその中程。


意外とカジュアルに食べれそうな店が少なく、イタリアンは多いのですが、リトアニアでピザやパスタも食指が動きませんし、寿司の服部という店もありましたが、入る勇気が出ず、ホテルがすぐそこの場所まで来てしまいました。


続きます。