旧盆ですね🕯

先程は父を偲んでの投稿をしましたが‥💧

もうひとつ‥✨

 

震災の2年前の3月11日満月の光に導かれて🌕

2年間の介護の末に、19歳で亡くなった

ジョイくんを偲びます✨💕🙏🌸🌼🍀🌈

アクアマリンの瞳の寄り目のジョイちゃん💎💙
もふもふのかわいいジョイちゃん🌸
永遠にl love you✨😼💖

 

13年前の愛猫ジョイくんの死の際に綴った

レポート(長文)お読みいただけたら

うれしいです⭐️

 

<✨最後のJOYくんレポート✨>
ジョイくんは2009年3月11日、

満月の光に包まれてこの世から旅立ちました。
死を宣告されてから死に至るまでの3日間は

ジョイにとってはもちろん、私にとっても、

とても辛いものでした。

 

19歳という高齢だったので全体的に

老衰していたのですが、慢性腎不全の末期でした。
もう何もしてあげられることはなく、

傍らで苦しむジョイを見ることは何よりも

辛いことでした。

 

私にできることは、ただそばにいてあげる

ことだけでした。
ジョイが旅立つ時にはそばにいてあげたい、

ジョイが淋しく、不安でないように。

やすらかで、安心して、その時を迎えられるように。

それが、この2年間の介護生活の中で

私の最後の願いでした。

 

とても辛かったけれど、その願いが届いて、

最期の3日間をそばにいられて、

看取ることができて、ある意味幸せだったと

思います。

 

3月7日土曜日の夜、ジョイの体調は

急変しました。
5日木曜日の定期健診の時には全く問題がなく、

みんなごきげんで病院から帰ってきたのに…。

 

土曜日に3回も排便し、嘔吐もし、夜には

大量の排尿を2回しました。
どんなに体調が悪い時でも、きちんと

トイレに行って排尿するジョイが、

ヒーターの近くの床と、

時々入ってくつろいでいた段ボール箱で

排尿してしまい、特に、お気に入りの

段ボール箱がぐっしょりと濡れて

しまった時は、おかしい!と思い、

動揺しました。

 

ジョイも私に目で何かを訴えていた

ように思います。

 

ジョイは老猫になってから便秘が持病になり、

この2年間苦しんでいたので、自力で

排便ができるということはとても喜ばしい

ことなのです。
ただ日に3度もすることはめずらしく、

日中家にいて様子を見ていた夫も

少しおかしいなと思いつつも、よいことなので、

そんなに気にとめなかったようです。

 

時々、排便の時にいきむので、嘔吐をして

しまうこともあります。
猫は嘔吐をしやすい動物なので、これも

そこまでは心配しなかったようですが、

嘔吐をすると弱るので、私が仕事中に

電話をかけて、様子を聞いたときに夫は

少し心配そうにしていました。

 

夜になって私が帰宅した時もそんなに

緊急というふうではないように見えました。
ただ、夜中になって、上記のように

大量の排尿をした時は、これはまずい!と

思いました。

聞いて見ると日中は一度も排尿して

いなかった様子。
夫も排便のことだけに気を取られていた

のだと思います。

 

なんらか泌尿器系の問題が生じたことは確かです。
ただもう真夜中過ぎで、かかりつけの病院は

閉まっています。
以前に救急病院に行ったことがあるのですが、

満足のできる対応ではなかったため、

もうそこには行きたくなかったのと、

出ないということなら問題だけど、ともかく

出たのだから、あと数時間待って、朝一番で

かかりつけの病院に行こうと判断しました。

 

翌8日日曜日も私はセミナーの仕事だったので

開始前までにセミナールームにつけるように

そして一刻も早く、診察してもらえるように、

病院に行きました。

 

「たぶん昨日はうまく排尿できずに、何度も試みて

その結果は3度も排便をしたのでしょう。

何かのきっかけで夜中に排尿できたということ

なのだと思いますが血液検査をしてみてみましょう」

ということでした。

 

そして血液検査の結果は、腎臓の数値が

振り切れていて深刻な状態であるということが

わかりました。

 

昨夜の強制給餌や投薬も普通ではない嫌がり方

だったのでそんなにいやならば…と、

また逆効果になってもよくないと思い、

途中でやめてしまいました。

 

今朝もお医者さまの指示に従おうと

思ったのでいつもの強制給餌と投薬はせずに

病院に行きました。
その旨を相談し、強制給餌と投薬をして

ほしいとお願いしました。
急いで食べさせて、すぐに車で帰って、

気分が悪くなって吐いてしまったら元も子もないし、

今日は夜まで入院して、ゆっくり強制給餌と

投薬をしながら、いつものような皮下にではなく、

血管に点滴をして様子をみましょう、という

ことになりました。

 

そして、もしも夕方まで点滴をして、

再度血液検査をして腎臓の数値が

下がらなかった場合は、もう長くはないと

いうことでした…。

 

ジョイを入院させて、仕事に行くのは、

とても辛いことでした。
2年も通っている慣れた病院であっても、

そこには他の動物たちも入院しているし、

具合が悪いのに、そこにひとり置いていかれて、

辛い治療を受けなければならない。

ジョイにとってはとても辛いことだと思うし、

理解のできないことだと思います。
何よりねこは安心できる家で家族と過ごすのが

大好きです。

 

そばにいてあげたいと思いましたが、

セミナー中はセミナーに集中し、

心の中ではジョイに愛と光を送り続けて

いました。

セミナー終了後、病院に電話をすると

担当の先生のお話は、

「点滴をして、血液検査をしましたが、

残念ながら、もう腎臓の数値は下がり

ませんでした。あと数日の命だと思います。
苦しむ姿を見たくないから、そのまま

入院させて病院で最期を看取ってほしい

という飼い主さんもいらっしゃいますが、

それは望まないと今までのことを見ていて

思います。
どうぞ迎えにきてくださって、最期の時を

一緒におうちで過ごしてください」

というものでした。

 

急いで病院に向かいました。
さらに先生はこのように説明して

くださいました。

 

「強制給餌も何度かに分けて根気よく

しましたが、今までにない嫌がり方でした。

もう強制給餌も投薬もやめましょう。

ただ夜の皮下点滴と朝晩の吐き気止めと

腎臓の注射だけはしてください。

もしかしたらそれさえ、必要はないかも

しれませんが…。

念のために出しておきます。
いつご出張でしたっけ?木曜日ですよね?

たぶん、行けると思いますよ。

それまではもたないと思います。

ジョイちゃんの目がいつもと違いますよね。

もう疲れてしまったのかな」

 

先生も涙声です。
おととしの秋、イギリスから帰国したあとに

瀕死の状態になった時に、強制給餌をして

いましたがあまりにもいやがるジョイを見て、

そこまでしてする必要があるのかと悩み、

先生に相談したところ、

「強制給餌をして、ちゃんと消化吸収し、

排便し、少しでも効果があって、

元気になれるなら、やり続けましょう。

でも制給餌が逆効果になるなら、

その時はやめましょう」

と言われ、納得しました。

 

もう強制給餌も投薬もしないということは、

延命をしない、強制給餌をしても

苦しみを長引かせるだけだ、ということ

なのでしょう。

余命数日という死の宣告でした。

 

実は木曜日から4日間、どうしても地方に

行く用事があり、何ヶ月も前から先生に

相談していたのです。

行けるかなぁ、どうかなぁと。

 

クリスマス前後に危機的な状態は

ありましたが、今年になってからは

落ち着いていたので姪に頼んで

行けるかなと思っていました。

ただ、姪もちょうど忙しい時期である

ということと、ジョイの状態から、

もしかしたら行けても日帰りかもしれない、

山梨だから、なんとかがんばれば

日帰りで行けないことはないだろう、

でももし状態が悪かったら、行くのは

やめようと思っていたところでした。

ぎりぎりまで待って、状況で判断しようと

思っていたのです。

 

先生のお話はとてもショックで、涙が

流れてきました。
でも、驚きはなかったのです。
昨夜、強制給餌をしようと何度試みても

頑として受け入れないジョイを見て、

その強い瞳を見て、強い意志、決意の

ようなものを感じました。
もう生きないという選択をしたんだという…。

そして私のその哀しい予感は、当たって

しまったのです。

 

ジョイを引き取ろうと診察室に行くと

ベッドの上につれてこられたジョイは

すぐにまっすぐに私の方へかけ寄ってきました。

先生も「わかるんだよね。お母さんのところに、

早く帰りたいんだよね」としみじみと

言っていました。

 

帰りの車の中、ジョイをしっかりと

抱きしめていました。何度も何度も通った

病院の往復の道。
車の中で、こんなふうに抱っこして、

このふわふわした毛並みを撫でられるのは

からだのあたたかさを感じられるのは

この心臓の鼓動を聞けるのは

これがきっと最後なんだなと思いながら。

 

そして、車の中ではいつもおとなしく

抱っこされているジョイくんがこの日は

かなり苦しかったのか、またはよほど早く

おうちに帰りたかったのか、落ち着きが

ありませんでした。

 

帰宅後は、点滴の効果で、思ったより元気でした。
自力でお水も飲んだし、トイレにも行こうと

しました。
でも、後ろ足がもうおぼつかない感じに

なっていたので私がジョイの胴体を

支えてあげて、一緒にトイレまで行きました。
それでも自力で排尿できたので、これは

すごいことだと思います。

誇り高いジョイくんは、最期まで自力で

やろうとがんばったのです。

 

お見舞いに来てくれた姉や姪も驚きながらも、

喜んでいました。

 

もしジョイが旅立つとすれば、夜だと

思っていたので夜は寝ずに看病していました。
月曜日は自宅で仕事だったので、ずっとそばに

いることができました。

友人もそばにいてくれました。

 

火曜日は別の友人と約束があったのですが、

キャンセルしてもらい、看病することが

できました。
たまたま新しい本の校正のしめきりだったので

月曜日と火曜日の夜中は姉にも手伝って

もらい、徹夜で仕事をしながら、

ジョイの看病をしていました。

 

水曜日は個人セッションがあったのですが、

それも日延べしてもらいました。

私は自分が入院した時も、病院から自分の

セミナーに通ったり、父が亡くなった時も、

セミナーを優先してからお通夜やお葬式にも

行きました。
でも今回は個人セッションだったので、

お申し込みいただいた3人の方には

事情を話して変更してもらいました。

 

小さいジョイくんは、私のサポートを必要と

している、私にそばにいてほしいと思っている、

だから私もそうしてあげたいと思ったので、

今回だけはクライアントの方にご迷惑を

おかけすることを承知の上で、お願いさせて

いただいたのです。

 

そういうわけで月曜日から水曜日の

ジョイの最期の3日間はいろんな方たちの

協力のおかげで、共に過ごすことができました。

 

日曜日の夜は、立つことやお水を飲むことが

できたジョイくんは月曜日には、なんとか

動こうとがんばって、上半身を動かすことが

できました。

火曜日にはだんだんと弱ってきて、

上半身もうごかせなくなってきました。
水ももう飲めなくなっていました。
ペットシーツには、血尿なのか、血のような

茶色いものが、少しずつ何度かでるように

なりました。

 

病院に電話で相談すると、出ないよりは

出たほうがいいということと連れてきて

もらっても何も改善できることはできない

だろうとのことでした。

 

少しずつ痙攣も起こるようになりました。
水曜日には全く何もでなくなり、痙攣も激しく

なってきました。

病院に電話で相談しましたが、痙攣止めの

薬は強すぎて使えないし、もう何もできない

とのことでした。

 

だんだんと弱っていくジョイくんに

朝晩の注射と夜の点滴以外には実際的には

もうほとんど何もすることができない、

ただ見ているだけしか、そばにいるだけしか

できない。本当にそれが辛かったです。

 

水曜日にはほとんど動けなくなってきて

いたので、時々体の向きや位置を変えて

あげたり、少しでも楽になるように、

枕をしてあげたりしました。

 

苦しい時に、あまり撫でられたらり、

かまわれるのもいやかなと思い、

避けていたのですが、時々顔をそっと

撫でてあげるととても気持ちよさそうに

していました。

 

ジョイくん。ジョイちゃん。にゃんちゃん。

ジョイにゃん。にゃんきー。ジョイキー。

ジョイキン。

 

いろんな名前で呼んでいたけれど、

最後の3日間は、ジョイちゃんと

呼んでいました。

 

いつもは私のことを受け止めてくれる、

私にとっては大きな頼れる存在の

ジョイくんだったのですが、その時は

赤ちゃんのように小さいか弱い存在に

感じていました。
だからなのでしょう、自然とジョイちゃんと

呼んでいたのです。

 

ジョイちゃん、ジョイちゃん、ジョイちゃん…
何度名前を呼んだことでしょう。
私のジョイちゃん、かわいいジョイちゃん。
大きなねこちゃん。

 

ふわふわのベージュ色のジョイちゃん。
茶色の太いしっぽと手足、まんまるの

お目々で寄り目のジョイちゃん。
大きな音でごろごろと喉を鳴らし、

いつも悦んでいたジョイちゃん。
お風呂やトイレまでのくっついてくる

甘えん坊のジョイちゃん。
バニラの香りが大好きで、チョコレートや

クッキーの香りが好きだったジョイちゃん。

「ジョイは世界で一番かわいいねこちゃんだからね」
毎日毎日、ジョイに言っていた言葉を

何度も何度も繰り返しました。
そして、私がどんなにジョイを大切に想い、

大好きなのか、

ジョイがいかにすばらしいねこちゃんであるか、

いつもまっすぐな美しいアクアマリンの

ようなブルーの瞳で私を見ていてくれたこと、

いつもどんな時も私を待ってくれていたこと、

どんな私でも受け入れ、愛してくれたこと、

信頼してくれたこと、言葉にできない気持ちを

伝えました。

 

海外に行っている間は淋しい思いをさせて

しまって、申し訳なかったこと、

留守がちだった時もあったけど、いつも私の

ハートの中にはジョイがいたこと、

ジョイと出会えて、共に過ごすことができて

どんなに幸せだったか、感謝とお詫びの

気持ちも伝えました。

 

ジョイには本当にたくさんのものを

与えてもらい、教えてもらったのです。
ジョイはずっと私を抱きしめてくれていたのです。
その純粋で清らかで美しい愛と光で。

 

ジョイくん、今まで本当にありがとうね。
水曜日の夜になると、痙攣がさらに

激しくなりました。
ある痙攣の発作でジョイは口の中を噛んでしまい、

口の中から大出血をしてしまいました。

舌を噛んでしまったのでは?と思うほどの

出血だったので、ショックで、

もうどうしていいかもわからず、

おろおろしていましたが、インターネットで

調べてみると、痙攣で舌を噛むことはないと

わかったので、ほっとしました。
口から血を流し、何度も続く痙攣の発作…。

痛ましい様子…。

 

ジョイくんに

「もう楽になってね。私のためにがんばら

なくてもいいからね。自分のタイミングで

旅立っても大丈夫だからね」

と伝えました。
本当にもう楽になってほしかったのです。
ぼろぼろになった体を脱ぎ捨てて、

早く自由になってほしいと心から

思ったのです。

 

とても繊細で感覚的な夫はジョイと

シンクロして体調を崩していたため、

この時すでに休んでいたのですが、

このすぐあとに、姉が来てくれていたので、

心強かったです。

 

痙攣を繰り返した後しばらくして、

ジョイは静かに息をひきとりました。

 

3月11日水曜日 夜11時40分でした。

 

ジョイは満月の夜、月の光に導かれて、

旅立って行きました。

19歳4か月の命を終えたのです。

 

その日も私も夫も姉も夜通し起きていて、

ジョイのそばについていました。
ジョイはまるで眠っているようでした。

でも何かが違うんですね…。

 

インターネットでペットの葬儀屋さん

も調べて、翌朝来てもらうように

手配をしました。
お昼前には、きれいな祭壇が作られました。

 

ジョイにきれいな家で最後を過ごして

ほしかったのと、祭壇にたくさんの

クリスタルを飾ってあげたかったので、

片付けをはじめました。

狂ったように!(笑)

何かをしていないといられなかったかも

しれません。

 

しばらくはずっとジョイにかかりっきりに

なっていたので家の中は散らかっていたので、

きれいにしたくて、その日はずっと夢中で

夜中まで片付けをしていました。

 

自分の部屋もただ着替えをするだけの

部屋になっていました。
冬になってからはずっと、ジョイがひとりで

不安かもしれないし、私もジョイにいつ何が

起こるかわからなかったので私は毎日1Fの

リヴィングルームの床にマットレスをひいて

寝ていました。

 

ジョイが亡くなった水曜日の夜中、片付けの後、

何ヶ月かぶりに2Fのベッドで休んだのですが

自分のベッドなのにその高さになじめず、

眠れませんでした。
そんな小さなことが辛くて切なくて、

悲しかったです。
ジョイがいれば、床で寝ようとなんだろうと

そんなことはかまわなかったのに。

 

ジョイは私にとって、一番いいタイミングを

選んで旅立ったのだと思います。

私に山梨に行かせてあげようとして

くれたのでしょう。

 

先生が「ジョイちゃんはたぶん木曜日まで

もたないと思います」と言った通り、

木曜日になる20分前に亡くなりました。

ジョイは選んだのだと思います。

自分の死を。
それは土曜日の夜に強制給餌を頑として

いやがった目を見た時にわかりました。

私に木曜日から出かけてほしかったのだと

思います。

 

ジョイにとっては「死」さえも愛の表現

だったのです。

 

私は思わず、子供のころに読んで感動した

萩尾望都の「トーマの心臓」を思い出しました。

 

金曜日から1日遅れで、山梨に向かい、

アメリカから恩師の先生やたくさんの仲間や

友人たちと会えたのでサポートして

もらうことができました。

 

その後もたまたま時期的に、毎日が忙しく、

気がまぎれました。
季節も春になる時だったので、気分的にも

楽でした。

 

私が辛くないようにと、そしてまた私が

多忙だとジョイの面倒を見るのも

大変だろうから、もう迷惑をかけたくない

という気持ちもあったのでしょう。
いろんな意味でいい時期を選んで

逝ったのだと思います。

 

ジョイをなかなか逝かせることができない

私のためにがんばってくれたジョイくん。
たぶんジョイ本来の予定よりも長く

生きてくれたのだと思います。
よしもとばななさんもそう言っていました。

 

ジョイちゃん、よくがんばったね。
えらかったね。すごいね、ジョイくん。
今まで本当にありがとうね。
ジョイのことは、ずっとずっと忘れないよ。
いつまでも憶えているよ。
ずっと大好きだよ。ずっと一緒だよ。

ジョイは私の心のささえでした。
強くて、凛々しくて、誇り高いジョイくん。
やさしくて、かわいくて、スウィートな

ジョイちゃん。
賢くて、包容力があって、何でも受け入れて

くれるBIGハートなジョイ。

 

ジョイがいなくなってしまったあと、

きちんと仕事もしていましたし、

普通の生活ができていました。

2年前の私だったら、たぶんもっと

大変だったに違いありません。

 

でも、それなりに元気で過ごしていても

芯の部分で、とても淋しく、哀しい感じが

いつもありました。ぽっかりと穴があいた

ような感じです。

 

リアルなジョイがいない生活が淋しく、

撫でたり遊んだりするなどのふれあいが

ないのが、哀しいのです。

ショックというかまだ慣れてないというか。

もちろん、それなりに元気にはしていますし、

暗いわけではありません。
やれることはジョイも私も獣医さんも

みんなやったから悔いはないし、

2年の介護生活の中で心の準備と覚悟も

して来ました。
でもやはり淋しさを感じます。

 

私はまだなかなかジョイのいない生活に

なじめずにいました。
自分のベッドの高さにはもう慣れましたが、

ジョイのために各部屋のドアを決して

閉めるということはなかったので
ドアを開けておく必要もないことや、
朝起きても、夜帰ってきても、

ジョイがいないことに違和感を感じたり…。

外から家に電話をかけるとつい

「ジョイはどう?」と聞いてしまったり…。
出かけてもジョイが待ってるから

早く帰らなきゃと思ってしまったり…。

 

ジョイのためにTVや音楽も大きな音で

聴くことはしてなかったけれど、
もう大きな音を出しても大丈夫だし、
夫とふたりでどんなに遅く帰っても、

何日家をあけても、遠くまで旅行に

行っても大丈夫。

 

でも、そんなことよりもジョイがいて

くれることが大切なのに…。

 

時間をかけて癒していこうと思います。
あの最期の3日間を思い出すのは

とても辛かったので、
なかなかこのエッセイを書き始めることが

できなかったのですが、今回数日かけて、

少しずつですが、書くことができたので
これも私にとって、貴重な時間でした。

 

いつかすべてのことがやさしく甘い

想い出になるまではまだ時間が必要な

ようです。

 

ジョイの死から1か月。
今度は祖母が亡くなりました。
97歳10か月の大往生です。
祖母の時も思い残すことがないように、

夫と最後のお別れを言いにお見舞いに

行きました。

 

ジョイと同じような状態で、食べることも

飲むことも排せつもできず、ほとんど意識が

ない状態でした。
それでも「おばあちゃん」と声をかけると

反応がありました。
でも、苦しそうだったので、早く楽に

なってほしいと祈りました。

 

私も毎月、こうしてジョイと祖母と、
死にゆく人を見るのは辛かったです。

 

それと同時に生と死について、深く考える

機会を持ちました。
ヴァイオレットのテーマです。

 

生病老死。人間には4つの苦しみがあると

お釈迦様は言いましたが、
生まれる時も苦しいだろうし、死ぬ時も

苦しいのだとつくづく思いました。
通過儀礼というのでしょうか。
何かを遠り抜けて、違うところに行く時には

苦しみがつきものなのでしょう。
でも、死の直前の脳は体の苦痛や不安を

取り除くため、脳内麻薬のようなものを

出すのだと言われています。
そのため、とても幸せなここちのよい

気分になるそうです。
そして記憶に関する側頭葉の働きが

活発になり、走馬灯のように人生を

振り返るのだと。

 

宇宙はとてもやさしいのですね。
最期が苦しくないようにしてくれ、

そして人生を振り返る機会を与えてくれる。

 

ジョイが亡くなったことを翌日、

お世話になった病院に電話でお知らせした時に、

最期の痙攣にひどかったことと、口の中を切

ってしまって大変だったことをお話すると、

先生は、痙攣を起こしている時、傍目には

とても苦しそうに映るが、実は本人は

何も感じていないのだと言われました。
私が思うほど、ジョイは辛くなかったの

かもしれません。
おそらく祖母も。
だとすれば、本当によかった!!

 

ジョイのお葬式は、私が山梨から帰ったあとの

3月16日月曜日でした。
その日は快晴で、あたたかい春のうららかな

日でした。
ジョイは満月の夜、月の光に導かれ旅立って、

春風に乗って、春の空に帰って行きました。
夫や姉、姪や甥と家族葬をしました。
今は火葬をしてくれる車があるので、

家まで来てもらい、広い公園に行って、

きれいなお花でジョイを飾って、

みんなでカードを書いて、

最後のお別れをして、

火葬してもらいました。
とても親切な葬儀屋さんに恵まれ、

よいお別れができてよかったです。

 

3月中は多忙だったため、4月のはじめになって

ようやく、お世話になった病院の先生に

ごあいさつに伺うことができました。
ネイチャーアニマルホスピタルの先生方には

本当にお世話になりました。
特に大古田先生には親身になってもらって、

献身的に治療していただきました。
感謝の気持ちでいっぱいです。
最後のご挨拶では先生と一緒に

泣いてしまいました。
こんなふうに気持でつながれたことも

うれしかったし、そういう先生に愛情を

かけてもらい、治療してもらって、

ジョイも幸せだったと思います。

 

その病院は美しい桜並木沿いにあります。
ちょうど桜の頃だったので、夜桜を眺めながら

ジョイを偲びました。
本当に美しい夜でした。

 

祖母のお葬式はちょうど1ヶ月後の16日でした。
大往生だったので、明るいお葬式になりました。
生きているということは、いかに多くの方たちに

支えられ、愛され、ケアされているのかと

いうことを、お葬式の時に改めて気づかせられます。 

 

生きることって、人生ってすばらしいものなんだなと。
肉体が滅んでも、消えない何か、
―愛し愛されたという愛の体験、
愛し合うことによって深まった愛の絆、
そして深い信頼―
それを経験したくて私たちの魂は

ここに生まれてきたのでしょう。

 

よく生きることがよく死ぬこと。
泣いて笑って、楽しんで、好きなことを

思いきりやって、
みんなとふれあい、愛し合い、
いろんことにチャレンジして、
自分の才能を使って世の中に貢献して、
一生懸命に生きたい。
そして、いい人生だったと笑って

旅立ちたい。
そんなふうに今、心から思うのです。
LOVE&LIGHT
2009年4月29日(水)

 

―ジョイの死から数えて、たまたまちょうど49日でしたー
7×7は49で、7の強調です。

7は虹の最後の色。終わりの数。
7番目のチャクラは、ヴァイオレットで

死と再生を表します。
このエッセイを書くことが、私にとっての

ひとつの区切りで何かが終わって、

新しい何かが始まっていくのだと思います。

 

肉体レヴェルでのジョイとの生活は

おわったけれど、新しい形でのジョイとの

関わりの始まりなのでしょう。
そしてその絆は永遠に続くことでしょう。

 

長いエッセイを読んでいただいて、ありがとうございました。
Live,Love,Laugh and be Happy💖

 

武藤悦子✨💕🐬🐚🧜‍♀️💙🦄🧚‍♀️🌸🌼🍀
保護猫たちと一緒に😼楽しく深く学べる💖

ハートと癒しのスクール💙ディヴァライト🍀

「✨女神のように強くやさしくしなやかに

生きるための聖なる智恵とメッセージ✨」

をお伝えしています🌸