少し母が落ち着いてきた頃から、夜は父に任せて働くことにしました。

どんなバイトをしようかと思ったのですが、結局、教員の経験を活かして、初めは、家庭教師を掛け持ちしてました。

その後、縁あって実家から近いところで、小学生と中学生向けの小さな学習塾を立ち上げスタートし、そのお仕事を始めました。

最初は、母の知り合いの方のお子さんが来てくれて、あとはそこから、ほぼクチコミできてくださいました🎵一番多かった時は、三十数名来てくれて、大学生の子達二人にバイトに来てもらってました。

学校に勤務していた頃とは違って、自分のペースで子供たちに寄り添えるので、リラックスできて、やりがいもありました。

そして、子供が増えるに連れて、お給料も増えるという体験は、
教員時代にはなかったことです。

公務員としてお給料を頂いてた時は、がんばってもがんばらなくても、お給料は変わりませんからね。

収入が安定していていいね。やめても年金もらえるしね。

みたいなことを
よく言われましたが、

実際は四年くらいでやめちゃったから、退職金を50万円くらい頂いて、そのあとはもう何もなかったです。

『安定収入』なるものは錯覚に終わりました。

個人事業主になって、がんばればがんばるほど、お給料が上がる‼️
商売感覚みたいなものを体験できて、結構面白かったです。

手応えを感じながら
仕事するっていいなぁと思いながら、週に三回の学習塾と家庭教師は二回だったので、週に5日は夜だけ働いていました。

そんな頃、お付き合いしていた彼と結婚したのです。

彼とは、私が小学校に勤務して3年目の、まだまだ体調が悪い中で頑張っている頃に出会い
とにかく、優しく寄り添ってくれて癒されて、お付き合いが始まり、母のその後の病状が落ち着くのを待って、結果的に2年間お付き合いして結婚しました。

結婚に対してのイメージは、
夢いっぱいのワクワク感というよりも、現実的に嫁姑問題や、家事も大変そうだから頑張らなくっちゃと思っていました。

最初は、二人でアパートに住み、朝は5時に起きて、しっかり和食の朝食と、毎日のお弁当も作っていましたし、

ミートソースや、ぎょうざ、ハンバーグなど、全てレトルトを使わずに手作りのおかずを、必ず三品は欠かさず作っていました。

がんばっていたね〜😊😊

もちろん夜は、塾のお仕事があるから、作ったお料理にラップをして出かけるという感じで、がんばっていました。


まずは、妻としての役割ができるようになってから、子供はその後で作ろうと思ってました。

ただ、実際はそんなに自分の計画通りにはいかず、

子どもが欲しいと思っても、すぐに授かることはなく、毎月毎月できなかったことがわかると、がっかりする日々になり、ストレスが溜まって行きました。

当時住んでいたアパートは、ほとんどお子さんがいたから、余計に、できない自分を責めたりしていました。

そのうち、土地や家のいろんな問題が起きてきて、当時コミュニケーションもあまり得意ではなかったから、自分の殻に閉じこもってしまい、結局、離婚することになりました。

『もう、別れたいんだよね。』って言われたので『うん』と、返事をしました。

その頃は塾と家庭教師以外に
権利収入につながる仕事をしていました。

安定収入を築けるようなお仕事へのチャレンジは過酷で、いろいろとエネルギーを使っていて、かなり夜遅くまで家に帰らず、従って朝は起きられず、6時過ぎ送り出す彼の朝ごはんも作れなくなってました。

すなわち、完全にすれ違い状況で、日曜日の朝寝ていたら、ある日旦那さんがどうぞって、朝ごはん作っておぼんに乗せて持ってきてくれました。

何にもできなかった人が、いつのまにかできるようになったんだと思って驚きました。

世間一般では、よく離婚の大変さを聞きますが、私の場合うなづくだけでした。そのあとは離婚届にサインをして、仲人さんのところに挨拶に行きました。

今思うと、彼が優しい人だったから、きっとそれで済んだのでしょうね。何はともあれ感謝ですね(⌒-⌒; )

ということで、結婚生活は四年でピリオドでしたね。