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大切な愛猫バロンが2013. 3. 3の朝8時前に亡くなりました。
本当に悲しかったけれど前向きに生活出来ているつもりでした。
四十九日も過ぎた頃から急にペットロスに…。

…そんな私でしたが仏教を学び、やっと辛い想いを乗り越えました。
不快な方はスルーして下さい。

今日は十界互具(じゅっかいごぐ)について書かせていただきます。

十界互具とは簡単に言うと、人の心が十の状態(十界)を行ったり来たり(互具)するということです。


今日は十の状態のうち、割りと一般にも馴染みのある6つの状態について書かせていただいて、残りは次回にしようと思います(全部一遍にだと、ちょっと上手く説明できそうにないので)。





地獄界…誰かの事を恨んだり呪ったりしている状態

(誰かに復讐してやりたいとか、悔しくて眠れないとか…)


餓鬼界…欲しているものをどんなに手に入れても満足できない状態

(どんなに愛されても満足できない(不安)とか、もうお腹一杯のはずなのに満足できない(まだ食べたい)とか…ひょっとしたら、かまってちゃんと言われてる人達はこの状態なのかも。愛に飢えてる感じなのかな?)


畜生界…自分さえ良ければ良いという状態

(まるで動物のように自分のことしか考えていない、本能のままに突き進む感じ。)


修羅界…話し合いや正義に関係なく、「力(権力・腕力・話力など)」を利用してゴリ押ししている状態

(勝つためなら手段は選ばないといった感じでしょうか。)


人界…善悪の判断ができる状態

(善悪の判断ができる状態というような事も言われていますが、要は普通の精神状態ということかなと私は思っています。)


天界…天にも昇るような喜びの瞬間の状態

(目標達成や、○○大会優勝、第一希望が通った、大好きな彼と結婚した等々、その瞬間は絶頂的な喜びを味わえるでしょう。…ただ、「魔は天界にあり」とか「幸せすぎて怖い」なんていう言葉があるように、その状態は続きません。新婚夫婦も1年も過ぎれば慣れてしまいますよね。)






六道輪廻(ろくどうりんね)という言葉を聞いたことがある方もいらっしゃると思いますが、その六道がこの6つにあたります。

解釈については宗派などによっても様々なことが言われているようです。

上に書いた「地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界」の6つについての解釈は、私自身が納得出来たものです。



普通の人はこの六道(六界)を行ったり来たりして抜け出せないけれど、仏教を信じている人は、残りの4つの状態「声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界」の状態にもなれると仏教では説いています。

次回はこの4つの状態について書きたいと思っています。

不定期更新でいつになるか解りませんがご容赦くださいませ。



それでは本日はここまで。

ナムナム。

今日は慈悲喜捨(じひきしゃ)について少し。


これは「楽」を与え(慈)、「苦」を取り除き(悲)、共に喜び(喜)、奢らない(捨)ということ。

楽しみや喜びを人に与え、人の苦しみや悲しみを取り除き、人が幸せになれば共に喜んで、「私のお陰で幸せになれたんだよ!」…なんて恩着せがましいことは微塵も思わないということ。


なかなか出来ることではないかもしれませんが、これは「仏」に備わっている美徳の一つだそうです。

もしも「仏」になれる人がいるとしたら、こんな気持ちが絶えず溢れ出しているんだそうです。


なかなかそういう人にはお目にかかれませんが、マザーテレサの生涯を見ていると、「慈悲喜捨」とはそういうものかな…と感じます。

私には体力的にも精神的にも、とても真似できませんが、あなたの周りにもしそんな人がいたら、大切にしてあげてください。

その素敵な美徳が壊されないように応援してあげてください。

最近気が付いたことがあります。

イライラの理由についてです。


今まで漠然と仕事や人間関係など、何かが上手くいかない時にイライラしているものだと思っていました。

イライラの理由は仕事のストレスのせいだとか、カチンとくることを言われたからだとか…。

もちろん、ちゃんと理由があってイライラしていることも多いですけどね。


でも最近気が付いたのです。

誰とも何もない時でもイライラしていることがあるということに。

同じシチュエーションでもイライラする時と、「まぁ、しょうがないか」と許せる時があることに。



それで結局、何が言いたいのかというと、「人は特に何もなくてもイライラするものだ」ということです。

そのことに気が付くと、そのイライラを「誰かのせいにしないで済む」ということです。

誰かのせいにすると、怒りが膨れ上がって結局自分のイライラを増長させてしまうのではないかなと思います。

ひょっとしたら自分だけでなく、生命全体がイライラしやすい日なのかもしれません。

もともとイライラしているところに理不尽なことや嫌なことが起こると、相乗効果で自分も相手も炎上してしまうのかなと。


自分が元々イライラしている日には、そのことを充分自覚していれば、自分がもっと不愉快になる危険から離れられるかもしれません。


季節や気候など、自然の状態の変化でもココロの状態が変わったりするものです。

自分のコココの平穏を保つために役に立ててもらえたらうれしいです。

今日は八正道について書かせていただきたいと思います。

八正道とは、前回までに書かせていただいた「四苦八苦」を軽減するための修行法のことです。

八正道とはその字のごとく、八つの正しい道(教え)のことです。


正見(しょうけん)…正しく見ること

正思惟(しょうしゆい)…正しく考え判断すること

正語(しょうご)…嘘や無駄話、人を陥れるようなことや悪口を言わない

正業(しょうぎょう)…正しい業を身につけること

正命(しょうみょう)…まっとうな仕事で生きていくこと(罪悪感が沸くような仕事をしないこと)

正精進(しょうしょうじん)…正しく精進すること

正念(しょうねん)…自分が今どういう状況なのかを正確に判断すること

正定(しょうじょう)…正しい(穏やかな)心で安定していること


この八つのことを合わせて八正道と呼びます。



字を見ればなんとなく判るものもあるかと思いますが人間社会の決まりごと等から見た正しいことではなく、「仏から見た正しい○○」の事です。

ちょっと解りにくいかもしれませんが私なりに解説したいと思います。



はっきり言うと「仏から見た正しい○○」というのは仏にしか判らないので、「これが正解です」ということは私には言えません。

ですから、まず各々が仏様になったつもりで「これが正しいのではないか」と思うことを実践するしかないと思います。

まずはあれこれ考えて想像して実践に移しましょう。


そしてここが重要なのですが、その実践していることは

「自分が仏になったつもりで想像したことを実践しているだけなので、正しいとは限らない」

ということを頭の片隅に置いておくことです。


最初から上手くいけば良いですがきっと難しいでしょう。

「絶対に自分が正しい」などとは思わないことです。

仏教で言うところの「執着してはいけない」ということです。

仏教の修行には謙虚な姿勢が必要なのだと思います。


そして紆余曲折しながら進んでいくうちに、謙虚な気持ちさえ忘れなければ、間違っていることはおのずと判ってくるでしょう。

もちろん正しいこともおのずと判ってくるでしょう。


また、状況によっては正しいと思っていることが違ってくることもあるかと思います。

一つの事にこだわらない柔軟な思考を持つことが大事です。



一つ例え話をします。

当たり前だと思うかもしれませんが、これは一つの例え話なので、いろんなことに当てはめてみてもらえたらと思います。


信号が赤になったら止まるというのは普通は正しいことでしょう。

でも、状況によっては正しいとは言いかねます。

自分の大切な人が重傷を負って車に乗っている時、他に全く車がいないのに赤信号を守って青になるのを待っているのは正しいことでしょうか。

すぐそこまで津波が迫っている時でも赤信号を守って待つべきでしょうか。


この極端な例え話で、正しいことはその時々で微妙に変わってくるということを感じていただけたらと思います。

仏教では「無常」という言葉があるように、自分が正しいと思ってきたことも状況によって違ってくるということです。


自分なりに仏様になったつもりで考えて八正道を続け、間違えたことは謙虚に受け止めていくことで自分のココロが成長していくのではないかと思います。

正しいことをしていると不思議なもので、別の正しいことをしている人達との縁に近づきやすくなります。

そんな人達が周りに集まってくるということは幸せなことだと思いませんか。


もちろん、人を利用しようとする悪意を持った人達もいますが、それは八正道を行っているいないに関係なく存在するものだと思います。

八正道を行いつつ、悪意を持った人達には気をつけて生きていくというのがベターなのかなと思っています。

その悪意を持った人達ですら、「無常」という言葉があるように、縁によって良い方向へ変わっていく場合だってあるのです。



幸せに生きていくために、今自分に出来ることをしましょう。

本日はここまで。

ナムナム。

今日は「四苦八苦 」への向き合い方について少し書かせていただきたいと思います。

「四苦八苦」に限らず仏教全般に言えることですが、「執着しない事」 「こだわらない事」がとても大切だということです。

「執着しない」という事にも執着しないという、なんかナゾナゾみたいな事も言われています…。



何が何でもやる、意地でもやる、必ず成功させる…

→これを仮に「100」の状態とします。


次に

もうダメだ、どうせやったってしょうがない…

→これを仮に「0」の状態とします。



仏教ではこの「100」の状態にも「0」の状態にも執着することなく、10~90の状態(中道)を行きなさいと書かれています。

極端なのは良くないということでしょうか。



これを「四苦八苦」との向き合い方に当てはめてみたいと思います。


毎日起こった全ての四苦八苦と向かい合い、その全てを「当たり前のことなのだから仕方ない」と考える…

→これは「100」の状態と言えるでしょう。


「四苦八苦を当たり前のことだと実感するなんて自分にはどうせ無理だ、もう辞めた」と考える…

→これは「0」の状態と言えるでしょう。



では、実際にどうすれば良いのか。

毎日体調や気分、状況は個人個人で違ってきます。

例えば気持ちに余裕のある時には「90」くらいを目指して四苦八苦に向かい合ってみるとか、疲れて何もしたくない時には「10」くらいの気持ちで何もしない、考えない、自分を労わることに努めるなどなど、その時の状況に応じて10~90の間にいれば良いのではないかと思います。


ずっと四苦八苦と向かい続けることや(100)、四苦八苦と向かい合うことを金輪際、放棄してしまうこと(0)以外ならOKということです。

放棄せずにマイペースで進むことで人生の緩やかな上昇トレンドが生まれてくるのではないかと思います。



上手く伝えられたのかちょっと不安ですが、「四苦八苦」への向き合い方について書かせていただきました。

肩の力を少し抜いて、その日できることを少しづつやっていきましょう。




四苦八苦

四苦八苦 その2

四苦八苦 」について、何回かに分けて書かせていただきました。

まずはこの「四苦八苦 」は私だけに起こることではなく、あなただけに起こることではなく、誰にでも起こることなのだということを解っていただけたらと思います。

当たり前のことなのだと気がついてもらえたらイイなと思います。


幸せな環境に生まれた人は大抵の場合、自分が幸せな環境に生まれたのだとは気が付かずに過ごしていることが多いです。

今、自分に与えられているものについて、当然ですが当たり前だと思っています。

生まれながらに恵まれている人は、「四苦八苦 」を知らずして、自分が恵まれていることを実感することが困難です。

実感することが出来なければ、更なる幸せを求めるでしょう。

幸せを実感出来ないわけですから、幸せになりたいと思うわけです。


四苦八苦 」を当たり前のことのなのだと受け入れることで、物の見方を変えることが出来たとしたら、どんな状況の時にでも自分で幸せを作り出すことが出来るかもしれません。


…そんなことが仏教には書かれています。


もしこの事がアタマで解ったとしても、自分のココロが付いてくるのには時間が掛かります。

「四苦八苦が当たり前のことだと思ってみたけど全然幸せだと感じられないよ。」と感じたとしても、諦めずに続けていくことで少しづつココロに浸みていくのではないかと思います。


いつか振り返った時に、このブログを見た誰かが、そこはかとない幸せを感じることが出来ているとしたら、私にとってこんなに嬉しいことはありません。


まずは苦しみを受け入れてみてください。

それは当たり前のことなのだと…。

そこを乗り越えた時、きっと幸せへのヒントが見つかるはずです。

そう信じて今はただ自分の出来ることをコツコツと進めましょう。

ナムナム。




四苦八苦

四苦八苦 その3

仏教で言うところの四苦八苦について、何回かに渡って書かせていただきました。

今までに、「愛別離苦 」・「怨憎会苦 」・「求不得苦 」・「五蘊盛苦 」の4つのお話をさせていただきましたが、今日は四苦八苦の残りの4つ、生・老・病・死について少し書きたいと思います。


生・老・病・死とは、読んで字のごとく


生…生まれる苦しみ(生まれる時のことは覚えてないけれど、産道を通る時に苦しむから等云々)

老…老いる苦しみ(誰しも必ず歳を取り衰えていきます)

病…病による苦しみ(個人差はありますが、良い人も悪い人も関係なく病になります)

死…死の苦しみ(未だかつて死から逃れられた人はいないでしょう)


これまでに書いた「愛別離苦 」・「怨憎会苦 」・「求不得苦 」・「五蘊盛苦 」が知能のある生物に特有のものなのに対して、こちらの「生・老・病・死」は全ての生命が平等に持つ苦しみです。

何者も逃れることは出来ません。

仏教の「四諦」と呼ばれるものの中には、これらの四苦八苦を当たり前のことだと受け入れることから始めましょうと書かれています。

頭で理解することは簡単な人もいるかと思いますが、実感するには時間がかかるかもしれません。

解ったつもりでいても本当はしっかりとは解っていなかったと、謙虚な気持ちを持てた時が本当に解った時なのだと私は思います。



余談ですが、生老病死の「生」について。

「生まれる苦しみ」と言われる事が多いようですが、私はこれは「生きる苦しみ」なのではないかと勝手に思っています。

生きていくのって大変ですよね。

楽しい時には気がつかないけれど…。



次回の仏教のお話の時には、この四苦八苦の真の原因について書けたら良いなと思っています。

ナムナム。



四苦八苦 その2

四苦八苦 その3

泣いた後になんだかスッキリと清々しい気持ちになったことはありませんか。

泣くとストレス物質が涙と一緒に流れ出すんだそうです。


そんな訳で私も昔からストレスがMAXになるとストレス発散のために一人になった時に泣くようにしていました。

でも、愛猫のバロンが死んでからはちょっとやそっとのことでは泣けなくなってしまって困っています。

自分のストレス発散のためにバロンをネタにするのも嫌なので、バロンが死んでしまったこと以外で泣こうと思うと、とても難しいです。

バロンが死んでしまったことが辛かったせいで、以前よりも気持ちが冷めてしまっているのかもしれません。


仕方ないので今日はちょっと悲しい曲を聴きながら浸ってみたいと思います。

泣けますように…。

今日はこれまた四苦八苦の一つ、五蘊盛苦(ごうんじょうく)についてお話ししたいと思います。





お話ししたいとは言いましたが、この五蘊盛苦については私自身、まだしっくりとくる解釈が出来ていないのが実情です。





簡単に言うと「自分のカラダとココロが自分の思うままにならない事による苦しみ」ということのようなのですが、これでは以前お話した求不得苦(求める物が得られない苦しみ)と意味が被っているように感じます。





しっかりとした内容についてはいつか私自身がひらめいた時にまた書かせていただくとして、今日は五蘊盛苦の触りだけ書かせていただきます。





五蘊とは簡単に言うと


色 …自分の体のこと (すべての形あるものという意味もあるようです)





受 …感じたこと


想 …思ったこと


行 …意思


識 …ジャッジメント





の5つのことです。








つまり五蘊盛苦とは、カラダ(色)の状態とココロ(受・想・行・識)の状態が自分の思い通りにならないということです。





例えば臭いニオイが漂ってきたら臭いと「感じ」ますよね。


次にその漂ってきた臭いを嫌だなと「思う」のではないでしょうか。


人それぞれですが、次にその臭いニオイを何とかしようと息を止めたり、空気を払おうとするかもしれません(意思を持つ)。


そして例えば、その臭いニオイが苦しそうにしている病人から漂っていたとします。


そうすると空気を払った自分の行動は失礼だっただろうか、臭いんだから仕方ないじゃないか等、自分なりに正当化付けたり、ちょっと罪悪感を感じたりと心が動くのではないでしょうか(ジャッジメント)。





そういう反応は自分の思いとは関係なく無意識に起こってしまいます。


その事によって生じる苦しみのことが五蘊盛苦なのではないかと私は思っています。





…私が解っているのはここまでです。


また何か解ったら記事にさせていただきたいと思います。


中途半端で申し訳ないですが本日はここまで。

仏教をちょっと勉強して、理屈は少しづつ解ってきても、なかなか実践していくのはむずかしい。

咄嗟のことにはつい感情が反応してしまいます。

まだまだ修行が足りないですね。


今日はちょっと理不尽だなぁと思う人と出会ってしまい、ついカッとなってしまいました。

カッとなってしまうとこちらの負けなんですよね…。

冷静に対処できないので断然不利です。


少ししてから、これじゃいけないと気がついて、心が平静になるように努めることでなんとか対応しましたが、出遅れた分だけ少し悔いの残る結果となりました。


まあ、うまくいく日もあれば、うまくいかない日もある。

きっとそんなもんですよね。

日々のちょっとしたことが修行の種になっているんだと思うことで、うまくいっても、うまくいかなくても、無駄なことなんて何もないんだと思えます。


今日はうまくいかなかったので、ちょっとだけ反省して、次に生かせそうなところは生かしていきたいと思います。

ナムナム。