初代 神武天皇 6.八咫烏 | 神々の東雲

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わたくしたちの美しい国日本の成立を、記紀や神様のはなしを中心にまとめました。

実は、前回、ひとつ大事な書き損じをしてしまいました。
それは、「高倉下」の説明のところです。

「※「タカクラジ」は蔵を管理する人という意味の名前です。個人名かどうかはわかりません。」

と記述いたしましたが、実はその続きがありました。
うっかり、書き忘れてそのままアップしてしまいました。

今朝、読み返して、あれ、なにか物足りないなぁ... と思い、暫く思いだせませんでしたが、通勤電車(早いんですよー、いまはサマータイムなので... 大体5時35~50分が通勤で電車に乗っている時間です。サマータイム以外は6時30~45分ですね...)
の中で読んでいた神社関係の本で思い出しました!


と、申しますのは、ここです。


高倉下の説明の中に、『先代旧事本紀』という書物の巻5天孫本紀に、物部氏の祖神である饒速日命の子で尾張連らの祖天香語山命(彌彦神社の御祭神)の割註に「天降り以後の名は手栗彦命または高倉下命である」としている。その後『日本書紀』と同様の内容が記述される。という記載があります。

そう、おやひこさまと関連があるのですね。

おやひこにはご縁があって、ここ数年で何度も参拝いたしました。「彌彦神社 (いやひこじんじゃ)」をご参照ください。


※表現は違いますが、「彌彦神社」のウェブサイトにもそんな表記があります。


ということで、つづきです...

 


(現代語訳)

タカギ大神が教えるには

「天津神の皇子をこれより奥へと入らせてはいけない。

あらぶる神が非常に多い。

今、高天原からヤタガラス(八咫烏)を遣わせよう。

ヤタガラスが道案内をする。

その飛び立つあとを付いて行きなさい」

と言いました。

 

 

 

 

※夢のとりつぎ
これまではタカクラジがフツノミタマ剣が降ってくる夢の話をしていました。この段もタカクラジが夢で聞いたお告げを、イワレビコに伝えています。

一般的に古事記の中で神の言葉を受けるのは「巫女」です。

ここで、タカクラジは形式上「単なる床の高い倉の管理人」という表記ですが、実際は「神夢のお告げ、剣をさずかり、イワレビコのピンチを救い、剣を引き渡し、ヤタガラスのお告げを伝えるという「神官」の仕事をしております。
しかも、冒頭で触れましたように、別の書物には天香語山命だと記載されております。

このあたり、古事記ではちょっと説明不足な気がいたします。


※剣を持つという意味
タカクラジは夢のお告げを受けて、剣をイワレビコに献上しました。イワレビコは天津神の皇子ではありますが、すでに神の物語ではなく、人が活躍する時代に入っています。イワレビコも神の血を引くとはいえ、事実上の「人間」。

オオクニヌシのように死んでも復活するようなことのないのです(たぶん)。イツセ命のように傷を負えば死んでしまうのです。

盾津でナガスネヒコに兄を殺され、熊野の地でオオクマホノカに追い詰められます。地方の氏族を従属・征服するにも一苦労。イワレビコが神武天皇となるためには、高天原の神々の威光が必要です。
それが神のサポートである「剣」であり後の「ヤタガラス」というわけです。



※ヤタガラスに関しては別記事でお話しさせていただきます。

 

 


(現代語訳)

イワレビコがタカギ神の教えどおりに、ヤタガラスの後をついて行くと、吉野川の川下に付きました。
そこには筌(ウエ)を作って魚を取る人がいました。

天津神の皇子が「あなたは誰ですか?」と聞くと

「私は国津神です。名前は贄持之子(ニヘモツノコ)といいます」

と答えました。

ニヘモツノコは阿陀(アダ)の鵜飼の祖先です。


そこから進むと、尾が生えた人が泉から出てきました。

その泉には光がありました。

イワレビコは

その光に「あなたは誰ですか?」と聞きました。

すると

「わたしは国津神です。名前は井氷鹿(ヰヒカ・イヒカ)といいます」

と答えました。
 

イヒカは吉野首(ヨシノノオビト)たちの祖先です。



イワレビコが山に入ると、

また尾のある人に会いました。

その人は岩を押し分けて出てきました。

「あなたは誰ですか?」

とたずねると

「わたしは国津神です。

名前は石押分之子(イワオシワクノコ)といいます。

今、天津神の御子が来たと聞きまして 参上しました」

と答えました。


これ(石押分之子)は 吉野国巣(ヨシノノクズ)の祖先です。

そこから坂を踏み越えて行くと 宇陀(ウダ)に到着しました。

そこを宇陀の穿(ウガチ)といいます。

 


※ウエは竹で編んだ魚やエビやカニを追い込む罠のことです。

鵜飼は現在でも鵜飼で取った魚を鵜匠が宮家に納めています。

鵜飼の歴史がは古く、中国の史書『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった漁法として『以小環挂鸕○項、令入水捕魚、日得百餘頭』(小さな輪を鳥にかけ日に100匹は魚を捕る)と記されています。



※尻尾のある国津神

ここで、井氷鹿と石押分之子という、いずれも「尻尾のある」国津神(人間?)が出てきました。

尻尾というのは尻尾が生えていたとも、また、臀部に何かを付けていたのか、そのあたりが少し分かりませんが、この吉野地方の国津神の特徴でしょう。


名前に注目すると、井氷鹿は水の神さま、そして穀物の神さまでしょう。


「井」という字を使っておりますが、この時代の井は井戸ではなく、川岸に桁(木を井の字形に組んだもの)を出したものと考えられます。古事記に「光る川」という表記があるように、「川から上がってきた」のでしょう。更に光っていることで太陽神に関係があり、このことから穀物を司ることもわかります。


また石押分之子が言われている国栖(くず)とは「くにす」がつまった語であり、「国を住み家とする者」の意で、「国津神を祀る人々」という意味です。



このように、イワレビコさま一行はかなり遠回りをしながらも、大和の地に近づいてまいりました。



つづく...


 

 

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