初代 神武天皇 1.日向出立 | 神々の東雲

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わたくしたちの美しい国日本の成立を、記紀や神様のはなしを中心にまとめました。

いよいよ、今回から、古事記の「中巻(なかつまき)」、所謂、人代編をスタートいたします。

 

神代編にも、まだまだ多くの課題や、このブログを書き始めてはや1年と2か月が立ちましたが、この間におきましても、色々と修正点も出てきておりますので、そのあたりは以前に述べましたように、「古事記神代編のポイント」というコーナーを設け、俯瞰的に考え導き出した内容を述べていこうと思います。

 

つまり、こちらはこちらで先に進み、振り返りは別で...

 

そのようにしていきたいと思います。

 

 

 

(現代語訳)

神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ命)はその兄の五瀬命(イツセ命)と二柱で、高千穂宮(タカチホノミヤ)に居て、相談して言いました。

「どこの土地ならば、平安に天下を統治できるだろうか?

やはり東に行こうと思う」

すぐに、日向から出発して筑紫に行きました。

 

 

 

 

※復習です。
 

ウガヤフキアエズには四人の御子がいらっしゃいました。

五瀬命 (いつせ)、

稲飯命 (いなひ)、

御毛沼命 (みけぬ)、

若御毛沼命 (わかみけぬ)の四子でした。

この四子はいずれも、母はタマヨリビメさまです。

 

御毛沼命は常世へ渡り、稲飯命は母のいる海原へ行きました。
末子の若御毛沼命はまたの名を神倭伊波礼琵古命(かむやまといはれびこ)と言われ(これから後は、ずっとそのように呼ばれます)、長男の五瀬命 (いつせ)と共に、東を目指すことになりました。

 

 

 



(現代語訳)

豊の国の宇沙に着いたとき、宇沙の住民の宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)が足一騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を作って大御饗(=食事)を献上しました。

その土地…宇沙から出発して、筑紫の岡田宮に着いて、一年滞在しました。

筑紫の岡田宮を出発して、

安芸国の多祁理宮(タケリノミヤ)に着いて

七年滞在しました。

その国…安芸国を出発して、

吉備国の高島宮(タカシマノミヤ)に着いて

八年居ました。

 

 

 


※移動経路を確認します。

 

宮崎県 (日向) ※熊本県という説もあります。

大分県 (宇沙)

福岡県 (筑紫の岡田宮) ※1年間滞在

広島県 (安芸の多祁理) ※7年間滞在

岡山県 (吉備の高島宮) ※8年間滞在

 

 

ウサツヒコ・ウサツヒメは「宇沙の津の彦と宇沙の津のヒメ」で、宇佐は地名、津は港です。

 

恐らく宇佐の港を統治していた豪族と考えられます。この豪族がイワレビコとイツセがやってくると、わざわざ「アシヒトツアガリ宮」を建てて、食事をふるまうなど、歓迎しています。

それ以外のところに関しては滞在の年数は表記がありますが、具体的になにをなさったのかは、古事記には表記がありません。



これは、どういうことを意味しているのでしょうか??



この後にも、色々な方と出会っていきますが、さて、これは、果たして「イツセとイワレヒコ」が東に進んで行った過程で出会った否かがポイントです。




もうひとつは筆者がもっとも重要視している観点は「稲作の普及」です。




神武東征は、神武天皇が西国から武力を従えて大和へ向かう途中に各地の豪族を武力を持って制圧してきたという「騎馬民族」的なイメージを植え付けられましたが、そもそもこれは、筆者の世代の明らかに誤った日本史教育でした。


なのでそれはいたしかたありませんが、記紀によれば、そういう具体的な表記は全くありません。


つまりは、これらの豪族は単にこの大和に降ったと考えるのが一般的だと思います.


ようするに、ここには東に行く過程で書かれておりますが、そうではなく、イワレヒコが大和に定着したのちに、その臣下になったというのが普通で、それがこの段階では一緒くたにされていると考えてよいと思います。



こうして、イツセさまとイワレヒコさまの東への進行がはじまりました。

 







 

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