人々に愛の福音を語っても拒絶されたり、迫害や非友好的な反応が返ってくることもある。そういえば、
私がイエス様を受け入れたとき、今日の聖書箇所に書かれていたようなことが実際に起きた。私は
教会主催の夏キャンプに参加して、そこで人々と遊び、学び、交わる中で神様のことを意識し始めた。
初めて聖書を手にし、話を聞いたのは高校1年の春、同じクラスだったNの誘いがきっかけだった。
ある小雨の降る日の放課後、ハンドボール部だった私は部活が休みになったので、さっさと帰ろうと
支度していると、友人Nと会った。ちょうど彼も帰るところであり、帰る方面が同じ(学校から家までの
距離は、彼の家は私の家までの距離の2倍ほど)だったので、一緒に帰ることにした。
二人とも雨合羽を持っていたのだが、なぜか着ることもせず、学校の話やらなにやら、今では忘れて
しまったが、他愛もないことをしゃべりながら家路を急いだ。その中で最近学校で配られた聖書
(財団法人日本国際ギデオン協会 贈呈)の話になり、いろいろと話すうちに何と私は自分の家を
通り越し、彼の家の近所まで行っていた。
彼の家に上がりこんで、話の続きを聞いたり、質問をしたりしたのだが、結局その日はキリスト教会
なんて怪しい宗教で、足を踏み入れたら最期、なかなか脱会できないだろうと思っていた。だが、
その後個人的に彼の知り合いの大学生や社会人と会ったり、聖書の学びをする中で、徐々にキリストと
聖書に心が開いていった。
(ちょっと脱線しますが・・・)
それまでの自分はというと、4人兄弟の末っ子として生まれたこともあってか、比較的甘やかされて
育ち、何をすれば回りの大人が怒り、また喜ぶのかを巧みに見分けるようなずるい子どもだった。
大人の前では良い子の振りをして、影では悪さをするという罪人であった。
ところが、中学に入って1年目の2学期、なんと学級委員長になってしまったのだった。いまだに
理由はよく分からない。勉強こそ真ん中よりややできたほうだったが、決して勉強好きではなく、
スポーツは太っていて何をやってもそこそこダメ、性格もいたってのんびりで、親しい友人数人と
付き合う程度であった。面白いもので一度そういった立場になると、まじめくんのレッテルが勝手に
貼られるのか、結局3年間で4期(クラス役員は半年交代)もやることになってしまう。ひょっとして
イジメだったのか!?
自分のことは自分が一番よく知っているとおり、自分など決してまじめくんではなく、そんな役割を
負わされるのがきっと重荷だったのだろう。「だろう」というのは、当時その気持ちに気付いていた
わけではなく、いざ中学を卒業して、高校へ入学してから実感したからだ。
高校に入学して、それまでのいい子チャン仮面を外すと、本当はみんなと一緒にバカやったり、
騒いだりしたかったんだと気付いた。そして、その反動と言い訳してはいけないのだが、高校生
になってほとんど自分の知ってる友人がいないのを機に、自分のやりたい放題をして過ごそう
と思った。
私の母校は当時開校2年目の新設校で、今の時代なら訴えられそうなほど徹底した管理教育の
下で、わざと生活態度を悪くしたり、意味もなく先生に逆らったり、教科書を忘れると床に正座させ
られたのだが、一番後ろの窓際の席であることをいいことに、教科書を忘れたと嘘をついては一番
後ろであぐらをかいて早弁したり、よそ事をしたりしていた。ホント悪い生徒だった。
- 閑話休題 -
さて、そんなこんなで教会へも出入りするようになった高1の夏、友人Nに誘われて山奥での
キャンプに参加し、イエス様を自分の救い主、神として受け入れ、楽しんで帰ってきたのだが、
帰ってからが大変だった!!母にはNたちとキャンプに行く(友人たちとのキャンプと嘘をついて)
と言って半ば反対を押しきって出かけたのだが、なんと、母はNの家に電話をしたらしく、すべてが
バレバレであった。
「行くのはいいが、嘘をついて行くのは良くない」 という父の冷静でもっともな意見もあったが、
母は泣きながら、「教会に行ってる人間なんて、近所にも身内にもいない!頼むから止めて
くれ、あんたなんか恥さらしだ!」と怒鳴り、わめき、姉は結婚間近だったこともあって、相手の
家族に知られて結婚が台無しになったらどうするんだ、とばかり猛反対にあったのだ。
そんなとき、今日の聖書箇所を知り、とても慰めを受けたのである。もちろんその後も理解して
もらえないことや、母からの反対は何年か続いたが、社会人になるころにはあきらめたのか、
母も特に反対はせず、自分たちの結婚式には教会で挙式したにもかかわらず、家族、親戚、友人
たちが教会へと足を運んでくれたのである。
あのとき、イエス様ではなく、家族を優先していたら、「心で信じていればいいんだから」とか、
「まぁ、反対されなくなったら行けばいいし」と考えていたら、今の自分はなかっただろう。
かといって今の自分が何か優れているとは思わないが、少なくとも、神を愛し、神に養われる
シアワセを実感して生きていられるのは、何にも代え難い祝福だろうと思うのである。