人々に愛の福音を語っても拒絶されたり、迫害や非友好的な反応が返ってくることもある。そういえば、

私がイエス様を受け入れたとき、今日の聖書箇所に書かれていたようなことが実際に起きた。私は

教会主催の夏キャンプに参加して、そこで人々と遊び、学び、交わる中で神様のことを意識し始めた。


初めて聖書を手にし、話を聞いたのは高校1年の春、同じクラスだったNの誘いがきっかけだった。

ある小雨の降る日の放課後、ハンドボール部だった私は部活が休みになったので、さっさと帰ろうと

支度していると、友人Nと会った。ちょうど彼も帰るところであり、帰る方面が同じ(学校から家までの

距離は、彼の家は私の家までの距離の2倍ほど)だったので、一緒に帰ることにした。


二人とも雨合羽を持っていたのだが、なぜか着ることもせず、学校の話やらなにやら、今では忘れて

しまったが、他愛もないことをしゃべりながら家路を急いだ。その中で最近学校で配られた聖書

財団法人日本国際ギデオン協会 贈呈)の話になり、いろいろと話すうちに何と私は自分の家を

通り越し、彼の家の近所まで行っていた。


彼の家に上がりこんで、話の続きを聞いたり、質問をしたりしたのだが、結局その日はキリスト教会

なんて怪しい宗教で、足を踏み入れたら最期、なかなか脱会できないだろうと思っていた。だが、

その後個人的に彼の知り合いの大学生や社会人と会ったり、聖書の学びをする中で、徐々にキリストと

聖書に心が開いていった。


(ちょっと脱線しますが・・・)

それまでの自分はというと、4人兄弟の末っ子として生まれたこともあってか、比較的甘やかされて

育ち、何をすれば回りの大人が怒り、また喜ぶのかを巧みに見分けるようなずるい子どもだった。

大人の前では良い子の振りをして、影では悪さをするという罪人であった。


ところが、中学に入って1年目の2学期、なんと学級委員長になってしまったのだった。いまだに

理由はよく分からない。勉強こそ真ん中よりややできたほうだったが、決して勉強好きではなく、

スポーツは太っていて何をやってもそこそこダメ、性格もいたってのんびりで、親しい友人数人と

付き合う程度であった。面白いもので一度そういった立場になると、まじめくんのレッテルが勝手に

貼られるのか、結局3年間で4期(クラス役員は半年交代)もやることになってしまう。ひょっとして

イジメだったのか!?


自分のことは自分が一番よく知っているとおり、自分など決してまじめくんではなく、そんな役割を

負わされるのがきっと重荷だったのだろう。「だろう」というのは、当時その気持ちに気付いていた

わけではなく、いざ中学を卒業して、高校へ入学してから実感したからだ。


高校に入学して、それまでのいい子チャン仮面を外すと、本当はみんなと一緒にバカやったり、

騒いだりしたかったんだと気付いた。そして、その反動と言い訳してはいけないのだが、高校生

になってほとんど自分の知ってる友人がいないのを機に、自分のやりたい放題をして過ごそう

と思った。


私の母校は当時開校2年目の新設校で、今の時代なら訴えられそうなほど徹底した管理教育の

下で、わざと生活態度を悪くしたり、意味もなく先生に逆らったり、教科書を忘れると床に正座させ

られたのだが、一番後ろの窓際の席であることをいいことに、教科書を忘れたと嘘をついては一番

後ろであぐらをかいて早弁したり、よそ事をしたりしていた。ホント悪い生徒だった。


- 閑話休題 -


さて、そんなこんなで教会へも出入りするようになった高1の夏、友人Nに誘われて山奥での

キャンプに参加し、イエス様を自分の救い主、神として受け入れ、楽しんで帰ってきたのだが、

帰ってからが大変だった!!母にはNたちとキャンプに行く(友人たちとのキャンプと嘘をついて)

と言って半ば反対を押しきって出かけたのだが、なんと、母はNの家に電話をしたらしく、すべてが

バレバレであった。


「行くのはいいが、嘘をついて行くのは良くない」 という父の冷静でもっともな意見もあったが、

母は泣きながら、「教会に行ってる人間なんて、近所にも身内にもいない!頼むから止めて

くれ、あんたなんか恥さらしだ!」と怒鳴り、わめき、姉は結婚間近だったこともあって、相手の

家族に知られて結婚が台無しになったらどうするんだ、とばかり猛反対にあったのだ。


そんなとき、今日の聖書箇所を知り、とても慰めを受けたのである。もちろんその後も理解して

もらえないことや、母からの反対は何年か続いたが、社会人になるころにはあきらめたのか、

母も特に反対はせず、自分たちの結婚式には教会で挙式したにもかかわらず、家族、親戚、友人

たちが教会へと足を運んでくれたのである。


あのとき、イエス様ではなく、家族を優先していたら、「心で信じていればいいんだから」とか、

「まぁ、反対されなくなったら行けばいいし」と考えていたら、今の自分はなかっただろう。

かといって今の自分が何か優れているとは思わないが、少なくとも、神を愛し、神に養われる

シアワセを実感して生きていられるのは、何にも代え難い祝福だろうと思うのである。

さて、イエス様が弟子たちに模範を見せて来られて、いよいよその弟子たちを使命、宣教に遣わすため、

心構えというか、宣教の原則を語ることとなった。


弟子たちの使命 - 悪霊どもを追い出し、あらゆる病気、わずらいを直すこと

 → すでに汚れた霊どもを制する権威が与えられている


宣教の原則


 ・遣わされる(人々が来るのを待つのではなく、でかける)

 ・遣わされる場所(宣教フィールド、分野)を聞く

 ・天の御国を宣言する

 ・あらゆる病気、わずらいを直し、悪霊を追い出す

 ・上陸拠点を定め、滞在する(関わる)

 ・平安の子を探す

 ・語った結果、反応を恐れたり、捕われない(結果は主のもの)


今まで弟子たちは、イエス様と行動を共にし、彼のモデルを見て育った。もちろん

当時、まだイエス様はこの地上にいたのだが、初めて宣教のために弟子たちを

各地に遣わした。


やがては自分も一人立ちして、宣教に召され、セルやLTGをリードしていけるように

成長したいと思う。その日が突然訪れて慌てるのではなく、喜んで主に明け渡せる

ように、次は自分の番なんだという気持ちをもって生きようと思う。


(適用)


 ・自分の宣教プランを考える

  → 宣教に対して心の準備をする。どこ(どんな分野)に遣わされているだろうか?

宣教に踏み出すのを躊躇させている原因を探し、取り除く


 ・与えられている権威(悪霊を追い出し、あらゆる病気、わずらいを直す)を用いる。

  → 人と会ったら実践する。病人のため、祈る

昨日の8章に続いて、今日もいやしと奇蹟の箇所


イエス様のなされたいやしと奇蹟(パート2)


 中風(脳卒中の後遺症?) - 運んできた人たちの信仰

 会堂管理者の娘(死亡) - イエス様が手を置けば生き返ると信じた

 長血をわずらう女 - 着物のふさにでもさわれば治ると信じた

 盲人 - イエス様がメシヤであり、盲人の目を開けると信じた(ルカ4:18)

 口のきけない人 - 追い出された(としか書いてない)


やはりここでも信仰が大きく作用したことがわかる


そして、もう一つイエス様のミニストリーの根底にあったもの、それは人々に対する父の愛と憐みでは

ないだろうか。


「また、群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

そのとき、弟子たちに言われた。収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために

働き人を送ってくださるように祈りなさい。」 9:36-38


イエス様はいつも天のお父さんのみこころを行なっていた。だから「すべての町や村を巡って、会堂で

教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」(9:35)のは、天の父の

憐みを表す行動だったのだろう。


(適用)


 ・天のお父さんの愛と憐れみを今日出会う人に流す。愛と憐れみの心で話しを聞き、祈る


 ・羊飼いのいない羊(弱り果てている人)を探す。神様を必要としている人と知り合うきっかけを考え、祈る

イエス様のなされたいやしと奇蹟


 ツァラアト(※新改訳聖書第2版ではらい病人) - イエス様のきよい心に触れたら治ると信じた

 百人隊長  - 言葉をかけてもらえば部下がいやされると信じた

 ペテロの姑 - 体に触れたとき熱がさがった

 湖の暴風  - 言葉を発すると静まった

 悪霊つき   - イエス様が近づいたら(聖霊の臨在によって)出て行った


・いやしや奇蹟を受け取る側と流す側の信仰が大きく作用している

・信仰に応じていやしや奇蹟が起こる(信じたとおりになる)

・信仰とは神の力と権威を疑わずに受け取り、なんらかの行動を起こすこと


「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」 8:17


イエス様は人々をとても愛しており、病気でいることや、わずらった状態でいることに心を痛めていた。

彼の宣教の目的でもあった。彼の生き方に感動して、あとからついて来る者が増えてきた(弟子)


ここで弟子として生きるための心構えが語られる。


「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」

また別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」

ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせ

なさい。」 8:19-21


イエス様の弟子として従うとき、代価を払う覚悟、「そこそこの生活」という保障を手放すことが必要であり、

弟子として生きる決断は、自分の抱えている問題や係りあっていることが片付いてからではなく、最優先

して今始めることが必要なのだろう。(決して親の葬儀に出てはならんということではないだろう)


さて、イエス様がひとしきりいやしと奇蹟のデモンストレーションをなさると、今度は弟子たちが信仰を

発揮させる番がきた。(といっても弟子たちはそう思っていなかったようだが)イエス様ご一行が舟に

乗って湖へ出ると、大暴風がやってきた。大波をかぶってパニックする弟子たち、そしてそれを温かな

眼差しで見つめるイエス様 ・・・ (lll゚□゚)ハッ!  ・・・ =■● 寝てる ・・・


いやはや、信仰もここまでいくとスゴイね! 「助けて! おぼれそう!」 という弟子たちに、

「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ」ですもの。


なぜ大暴風という自然現象と信仰が関係あるのだろうか。今まで弟子たちはイエス様の後について、

人々のあらゆる病気、わずらいがいやされるのを見た。そして悪霊を追い出すのも見た。それは、

単なる私はスゴイでしょ、というデモンストレーションではなかった。天のお父さんが人々をどう思って

いるのかを表現したわけであり、天から与えられた権威、力を行使することを弟子たちに模範として

見せたわけでもあった。しかし、弟子たちは次が自分たちの番だという意識がなかったのかもしれない。


もう一つ彼らが信仰を働かせることのできなかった理由があるとすれば、それは「恐れ」だろうと思う。


「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」 ヘブル11:1


弟子たちは現実の目に見える大暴風に捕われるあまり、信仰を持つところにまで至らなかった。それは

まさしく今の自分に当てはまることだ。問題そのものに目を奪われるなら、ますますその問題がゴリアテ

のようにそびえ立ち、神を信じた自分が何者であるか、どのような権威と力が与えられているのかを思い

出すことができない。


その直後のガダラ人の地での出来事でも同じことがわかる。狂暴な悪霊憑きに悩まされていた人々だった

が、悪霊がイエスの命令で人から放れて豚に入り、豚が大量死すると、町中の者がどうか立ち去ってくだ

さいと願い出た。彼らはイエス様の権威、力を見たが、恐れに捕われ、神の国に対して心を開くことができ

なかった。これはまさしく恐れによって信仰が(心)閉ざされてしまった例だろう。


 ・恐れは信仰が働くのを妨げる


(適用)


 ・イエス様に従うことを躊躇している領域が自分の中にないかチェックする。あれば悔い改めて従う。


 ・自分に与えられている神の権威、力を行使する。イエス様のように、病と痛みをもつ人々を探し、

  恐れずに祈る

偽預言者(クリスチャン)の特徴 ・・・いきなりすごいテーマですが、ご勘弁 m(_ _)m


 ・態度、行動に表裏がある

 ・表面上は良く見えるが、内面は貪欲で、破壊的

 ・良い実(影響)を結ばず、悪い実(影響)を結ぶ

 ・神様も聖書も知っている(ヤコブ2:19)、が天のお父さんの御心を行なっていない


彼らの最後は


 切り倒されて火に投げ込まれる             

 イエス様から「あんたを知らない」と突き放される  → 永遠の地獄


コワイね。もちろん自分の行ないによっては神の基準に達することはできないわけだけど、

だからといって、行ないそのものが否定されたり、無意味であるわけではないんだろうな。


人は信仰に基づく行ない(聖霊に従って行動すること)によって救われると言っては言いすぎかな?



賢い人 - 岩の上に家を建てる、土台がキリスト(みことば)、みことばを聞いて実践する

        どんな逆境や問題があっても揺るがない


愚かな人 - 砂の上に家を建てる、土台はキリスト以外のもの、みことばを聞いても行なわない

         逆境、問題がくると簡単に倒れる


賢い人も愚かな人もみことばを聞いていた。決定的な違いは、その聞いたみことばを実践したか

どうかだ。


(適用)


私がキリストに似た者となるために

 ・他人に対して忠実に仕える → 教会から借りていた英語聖書と信仰書を返却する


キリストに似た者を増やすために

 ・職場(教会)の人々に仕える。自分がしてもらいたいことを積極的にする


 ・セルの仲間と話すので、愛をもって聞く。もてなす

裁くこと - 善悪、理非の判断をすること(辞書より)

        それは神様の役割。人が神様の役割をかって出てはいけない

        人を裁くと同じように裁かれる


互いに裁き合うと


 ・天のお父さんが悲しむ

 ・いのちがなくなる

 ・憎しみ、怒り、心の傷が増す

 ・問題が解決しない、しこりが残る


解決


 ・まず自分の内にある非を認め、問題(罪)を処理する

 ・相手を赦す(罪に定めない)


そうすれば、天のお父さんはその人の祈りを聞き、豊かに恵みを与えてくださる。


◎何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。

  これが律法であり、預言者です。 7:12


 =天のお父さんの願い


「これが律法であり、預言者です」 むむ、すごくシンプルだぁ! (・◇・*)b


4日前に律法や信仰による義を細かに考えていたのが嘘のようです(笑)


狭い門(道) - 良い実を結ぶ、みことばを聞いて行なう生き方


広い門(道) - 悪い実を結ぶ、みことばを聞くだけの生き方


(適用)


 ・自分にしてもらいたいことを喜んで他人にする

  → 教会の近所のKさんが、側道にある街灯が木々で覆われていて、家の付近まで

     明かりが届かないと言っていた。防犯上よくないので、枝払いをしよう。


 ・人を裁かない、罪に定めない

今日は少し早目に朝起きてしまった。といってもベッドから起き上がったのは5時半くらいだったのだが。

最近よく眠れず、夢ばかり見る。そして今日も・・・


「聖霊さまおはようございます」 近頃起きるとこう言うのが習慣になってきた。昔同名の本を読んだ

影響もあるだろうが、マタイのデボーションをはじめて以来、本当に心とライフスタイルに変化が

出てきた。聖霊に聞いて、ともに歩まない人生なんて虚しいと真剣に思うようになった。


でも、少し今日は起き立ての自分の心に元気がなく、沈みかかっていることに気づいた。思い当たる

ことはある・・・


最近私の所属している教会ICBCでは、皆で同じマタイ伝からデボーションをするよう励ましている。

そして、みことばを黙想し、実践したらこんな事が起こった!というたくさんの証しを耳にし、メール

で見たりするのだ。それは本当に楽しいし、神様に感謝している。同じキリストにあるからだで起こって

いることで、うれしい。


ただ、やはりそんな証しを聞きながら、正直言って自分は実践に弱いなぁとつくづく思わされる。

毎日デボーションを楽しんでできるようになった。神様と過ごす朝がとても好きだ。そして、みことば

から学んだことを生活の中で適用、実践するために行動目標も定めてみる。あるときはみことば

を思い巡らす、感謝するという適用だが、大抵は夜になってできたかどうか測定できる目標を立て

ているのだが・・・ これといって神様を知らない人々からの反応や、よい証しが生まれてこない。


病人のために祈ったり、愛を行動で表現してみたり、話しをじっくり聞いてみたり、祈りに行ったり、

自分なりにしてみるのだが、今のところ表面上は何も変化が起こらないのだ。う~む、目標の立て方

に問題があるのか、自分がチャンスを逃しているのか、実は水面下で動いているのか、さてはて

ふふ~んである。


そんなことを昨日の夜から思っていたら、今朝ちょっぴり悲しくなった。こんなときに「悲しむ者は幸い

です。その人は慰められるからです。」というみことばを思い出すが、なんだかねぇ。


とまぁ、この気持ちを神様に話していたら、ひとつのみことばが示された。


「私たちは神の作品であって、よい行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

(エペソ1:10)


その瞬間、自分の中の自信のなさ(こんな臆病な自分を通して神様が働いてくださるのか)が取り

除かれて、元気になった。


(そっか-、神様がよい行ないを用意してくださっているなら、よい行ないをさせてくださいと祈ろう)


そんな気持ちになれた。神様ありがとう!こんなちっちゃな私のことも気にかけてくれていることが

とてもうれしくて、ついついデボーションとは関係ないけれど、ちっちゃな証しとして記事にすることに

しました。


人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。 6:1 - まったくその通りです


 施し(奉げ物)であっても、祈りであっても、断食であっても、心の動機をチェックして行なう


あからさまに、他人の前でこれ見よがしに善行を行なうということは、なかなかないと思うが、

やっているところを見られていないと他人に何と思われるかとか、皆で祈るとき、こんな祈り

は恥ずかしいとか、祈る言葉が思い当たるときには大きな声で祈るが、自信がないと小声に

なるなど、やはりまわりの目を気にしてしまう弱さは正直あると思う。 \(- -;)ハンセイ


神様は偽善的な行ない、形式的な行ない、言い換えると心の伴わない行いがキライだ。

彼は人をロボットとしてではなく、自由意志、心を持つ存在として造られた。だから私が

心から神と人とを愛して行動することを願っているのではないか。


◎主の祈り


とても有名な祈りである。なぜイエス様はこの祈りを教えられたのだろうか。この祈りを

教えられる前、7節で、「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返しては

いけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」と言われたが、

直後には、だから、こう祈りなさい・・・ とハウツーを教えていらっしゃる。


ってことは、主の祈りはどうやら祈祷文にして繰り返すためのものではなく、祈りにおける

原則、カギがあるに違いない。・・・とはいえ、何度も読み返してみたが、あまり深く洞察

することはできなかった (^_^*) でもま、一応感じたままを記してみよう。


 天にいます私たちの父よ。 御名があがめられますように。

 祈る視点をまず天のお父さんに向ける。お父さんの栄光が現されることを最優先して祈る


 御国が来ますように。 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

 自分、家族、教会、地域社会、日本(世界)に神の支配と臨在が表されることを願う


 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

 へりくだって、恵みを求める。毎日神様を尋ね求める


 私たちの負いめをお赦しください。 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

 罪を告白して、赦しを求める


 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

 悪魔の誘惑、攻撃からの守りを祈る


 国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン

 栄光を帰し、神様に感謝する


う~ん、再考の余地、大いにありますな。でも示された真理に感謝です。


(適用)


 ・他人の目を基準にして行動を起こさない


 ・今日は愛する主、イエス様が復活されたお祝いの日。心から礼拝を奉げよう

「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるもので

ないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」 5:20


これはえらいこっちゃです! L(・O・;)」


やはり私のような安直怠け者を正すためなのか、つい十字架による恵みと赦しに甘えてしまい、

「まぁ、律法は良いものだとしても、守ることができないから十字架があるんだから・・・」な~んて

思ってるとえらい目に遭いそうです。


じゃぁ、どうしたら律法学者やパリサイ人の義(行ないによる義)にまさればよいのか!

イエス様を信じた者には、恵みによって信仰による神の義が与えられると約束されている

                                            (ローマ3:21-24)


それこそイエス様がこの地上に来られた目的なのだから。でも同時に彼は、「わたしが来たのは

律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために

来たのです。」 とも言っている。 5:17 


 ?(゜_。)?(。_゜)?ハテナ ここは一つ、律法と信仰による義についてローマ書から見てみよう!


「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことは

ありません。かえって、律法を確立することになるのです。」 ローマ3:31


「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべき

でしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に

生きていられるでしょう。」 ローマ6:1-2


「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、

キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい

歩みをするためです。」 ローマ6:4


「しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、

古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。 ローマ7:6


赤い文字を繋げてみると、


信仰によって 律法を確立すること = 罪に対して死んだ キリストとともに葬られた いのちにあって

                         新しい歩みをするため

律法に対して死んだ 解放され 新しい御霊によって仕えている

あら、不思議(ヲイヲイ、意図がまる見え) 内におられる御霊、聖霊さまの登場です。文字による

律法に対して、生ける神、聖霊さまご自身が私たちの律法であられるというわけです。


「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神は

ご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰

されたのです。それは、肉によって歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全う

されるためなのです。」 ローマ8:3-4


律法にはできなくなっていることといえば、義と認められること、救いだよね。ここでもう一つ

大切なことは、御霊に従って歩む私たちの中に律法の要求が全うされるということ。


「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」 ローマ8:14


 な~るほど! Σ(゚◇゚*)!!  


私の内に住んでらっしゃる聖霊さまの声に耳を傾けて、その通り生きたら律法を守ることに

なるんですね。


聖霊さまありがとう!


(適用)


 ・御霊に満たされて歩む(聖霊さまの語りかけに耳を傾ける)


 ・信仰によって救われたことに安住して神様の心を軽んじない


(今日はデボーションというより、聖書研究、メッセージだなぁ。)

イエス様が弟子に語られた幸いな人のもつ8つの品性


1.心が貧しい →心が空っぽ、世の中にあるもので心を満足させていない、神を見上げる心

2.悲しむ →自分や社会の罪の性質、不法を憎み、悲しんでいる

3.柔和 →性格的なものというより、洗練された柔和さ、(脚注より=へりくだる)

4.義に飢え渇く →神の正義が行なわれることを願う、神の主権を待ち望み、み心を尋ね求める

5.あわれみ深い →隣人に憐れみの心を持つ

6.心がきよい →純粋で正直である、罪を保ち続けず、告白してきよい良心を持ち続ける

7.平和をつくる →他者との平和を保つため、自らが積極的に行動する

8.義のために迫害される  →神の働きに関しては妥協せず、従い通す、真実に生きる


約束


1.心に天の御国がくる、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が表れる(御霊の実)

2.慰められる=痛み、悲しみが取り除かれる

3.地を相続する=領土(所有物)が増え広がる

4.満ち足りる=神の支配を見て満足する

5.あわれみを受ける=他の人々からあわれみを受ける

6.神を見る=神ご自身をもっと深く知る、神の力、わざを見る

7.神のこどもと呼ばれる=神の性質に似る

8.天の御国に入れられる=天にあるすべての祝福を受ける


まとめると、地上にいながらエデン(あるいは天国)にいるような生活を体験する


地の塩、世の光として、世の中の価値観に同調せず、御国の価値観を積極的に表わす


(適用)


 ・8つの品性を思い巡らす。 → 特に自分の罪、社会の罪を憎み、悲しんでとりなす。


 ・他者との平和を保つため、自らが積極的に行動する。