◎結婚について


 「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか」 - パリサイ人


神様は初めから人を男と女に創り、結婚することを意図された。であるなら、神様が結婚を意図されたなら、

離婚は神様が望んでおられることではない。不貞(不倫)以外の理由で離婚し、別の女性と結婚するなら

それは神様の当初の意図と違うことになる。


 - 結婚相手選びは慎重に



◎信仰と財産


 「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」 - 金持ち青年


金持ち青年は、何をしたらよいか、と行ないによって永遠のいのちを得ようとした。イエス様はそれに応じて

戒めを守るよう、行ないについて語られた。ところが・・・


戒めを守っていると自負しており、何がまだ欠けているのかと尋ねた青年には、

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めを守りきっていない事実が突きつけられた。


「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。

そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」


 撃沈!  Σ(゜◇゜;)ガーン  自分の財産を自分のために使うように、他人のためにも使っていなかった。


多くの財産を持つことは罪ではないが、その財産に固執して、天の御国よりも財産を守り、増やすことに

重きを置くようになると罪である。金持ちが天の御国に入るのが難しいのは、持っている財産に頼り、信仰

を働かせることをしなくなるか、信仰の成長を阻害してしまうからだろう。


「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」 マタイ6:24


ちなみに・・・ 「金持ちが天の御国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」という

言葉について、こんな話を聞いたことがある。


針の穴というのは、文字通りの針ではなく、エルサレムに入るための小さな小さな門の名前である。

そこは非常に小さいため、らくだの背からすべての荷物を降ろして、しかもらくだが跪いてやっと通れるか

どうかという門である。


つまり、すべての荷物(自分の罪)を降ろして跪き(謙遜になり)、やっと通れるという意味だろう。いや、

弟子たちの反応からすると、通るのも難しく、らくだが通るための門ではなかったかもしれない。ただ

神様の恵みのゆえに感謝するばかりである。(もっとも私は金持ちではないが・・・)


パリサイ人も、金持ち青年も、律法(戒め)を守り、行なうことに熱心だったようだが、やはり行ないに

よっては救いに到達しないということが明らかになるだけであった。


(適用)


 ・自分の持ち物、お金、時間、賜物を自分のためだけでなく、他人のためにも同様に使う

かなり遅れて更新! 今まで見に来てくださった方、本当にスミマセン m(._ .)m


天の御国で偉い者 - 子どものよう者 

 = 素直で、純粋 悪いことを隠せない 謙遜 (にならざるをえない)


イエス様は周りから高く評価されない人、チヤホヤされていない人、とるに足らないと思われている人、

社会的弱者を愛し、守られる。一般的な社会、組織とは全く違う


子どもや社会的立場の弱い人とどのように接するか


 ・受け入れる イエス様に接するように、敬意を払う

 ・見下げたり、バカにしたり、つまづきを与えるようなことをしない

 ・他の人と違う扱いをしない(軽んじない)


 → イエス様は弱い者をことさらに愛してくれているから


▼迷い出た羊


 百匹の羊の群れから1匹の羊が迷い出て、いなくなってしまった。(羊飼いの)あなたならどうする~?


自分だったら、残りの99匹を連れ帰って、まず安全を確保してから戻り、必死こいて捜すかな。たぶん

怒り心頭で。もし見つかったら首根っこ捕まえて説教してから群れに戻すだろう。でも、もし見つからな

かったら・・・ たぶん暗くなるまでは捜すかもしれないが、適当に見切りをつけて、ま、迷った羊が悪い

んだし、しょうがない。まだうちには99匹いるからなと割り切るんじゃないかな。


しかし、イエス様は一刻も早く捜しに出かけ、必死に捜し、やっとの思いで見つかったなら叱り飛ばす

どころか、99匹以上にこの頭の悪い、弱い羊を喜ぶらしい。


もし自分がこの迷い出た羊だったら、・・・ 事実そうだったんだけど すごく感激するし、愛をいっぱい

感じるだろう。自分の失敗で羊飼いから離れ、道に迷い、自分ではどうすることもできないのに、羊飼い

イエス様がいのちを賭けて自分を捜しに来てくれたんだから。しかも叱られて当然なのに、喜んでくれる

なんて、想像もつかないね。


じゃぁ、99匹のうちの1匹だったとしたらどうだろう?「何やってんだ!あのバカ羊が~!」と憤慨した

かもしれない。お前のせいでみんながどれだけ迷惑してるか分かってるんか、と責めたかもしれない。

まして、迷い羊を見つけた羊飼いが、その羊を99匹よりも愛していたら嫉妬するかな~。


そうだとすると恥ずかしいね。自分も同じようにいつ失敗するか、迷い出るかわからないんだから。

自分のことしか考えず、相手がどれだけ迷惑をかけているかに固執して、羊飼いイエス様の気持ち

を考えもしないってことだ。天の御国には弱くても愛される、受け止められる、自分が失敗して迷子に

なっても捜してもらえるって安心感があるんだなと思った。


◎罪を犯した人を赦すこと


 七を七十倍するまで赦す = 490回赦すっていうより、何度でも完全に赦すってこと

                    (490回も赦す前に失敗してしまうことが多いが)


 王に1万タラントの借金を帳消しにしてもらいながら、友の100デナリの借金を容赦しなかったしもべ


1タラント = 6,000デナリ 、 1デナリ = 1日分の日当、  日当をアルバイトで5,000円とすると、


1万タラント = 5,000円 X 60,000,000 = 3,000億円 (小さな国の国家予算並み)

100デナリ  = 5,000円 X 100      = 50万円 (誰かの月収くらい?)


う~ん、確かにこのしもべの行動は異常だ。自分がどれだけ多くを赦してもらったか、まるで理解して

いなかった。でも、同様に、私も神様から一生かかっても返しきれない負債(罪の負債)をイエス様の

十字架によって帳消しにしてもらったのに、他人のちょっとした言動に腹を立てたり、責めてしまう。

この愚かなしもべのようにならないようにしたい。


(適用)


 ・誰に対してもかたよった態度で接しない 特に子どもや弱い者を愛して助ける


 ・自分が多く赦されていることに感謝し、他人をいつでも赦す


◎変貌の山


 ペテロとヨハネ、ヤコブの3人だけを連れて山に登ったイエス様 - 彼らの目の前で姿が変貌する


 「御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」


 このイエス様は今まで弟子たちが共に生活してきたイエス様とは違った。本来の栄光に輝くイエス様の

 姿を垣間見る体験をした。きっとオロオロしたんだろな、弟子たち。おまけにとっくの昔に天国へ帰った

 モーセとエリヤまで現れてしまって。驚きと混乱のあまり、つい口が滑ってしまったフライング男ペテロ。


 「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を

  造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」


 ・・・意味不明である。ところで、どうして彼らにはイエス様と一緒にいるのがモーセとエリヤだと分かった

 のだろうか?誰かわかる人、います?名前を尋ねたとは書いてないし、まさか、  (;゜0゜)ハッ!


 モーセとエリヤのオーラが出ていた! 本当?ヾ(¬_¬*)ノ


 しかし、考えてみると、混乱すると何を言ってよいのか分からず、意味のわからないことを口走ってしまう

 こと、あるかもしれない。そういうとき、それは沈黙に限る?


ともかく、彼らの驚きを増すかのように、「光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、これは

わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がしたらしい。さすがに

ひれ伏してこわがる弟子3人。もう何も言えない状態になった。そんな彼らに優しく話しかけるイエス様。

やっぱりやさしいね (^◇^)  


ところが、いつの間にかモーセとエリヤがいなくなっており、イエス様一人だけだった  (lll゜□゜)ハッ!


ユダヤ人にとってモーセ(十戒=律法)とエリヤ(預言者)は、旧約聖書の象徴的人物だった。律法を

知る者すべてが尊敬していたリーダーモーセ、預言者として一目置いていたエリヤから目を離し、

律法と預言を成就させるために来られたイエス様にのみ目を向けるときが来ていたのだ。


「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」 とは、人間に希望や

望みを置くのではなく、天のお父さんが愛し、遣わされたイエス様に聞き従うことを表しているのだろう。


◎宮の納入金


さて、その後イエス様は再度ご自分が人々の手に渡され、殺され、三日目によみがえることを話された。

三日目によみがえるという言葉よりも、自分たちが信頼を寄せて、きっとイスラエルを裁く王様になる

はずのイエス様が人手に渡り殺されるという預言があまりにインパクトを与えたため、弟子たちは信仰を

働かせるどころではなくなったようだ。  ガ━(;゚д゚)━ン


きっと、ドヨ~ンとした暗く、悲しい雰囲気の中、カペナウムの神殿までやって来たのだろう。イエス様は

再度彼らの信仰を励まそうと、面白いことをなさる。宮の納入金を集める人たちから納入金を催促された

ペテロに対し、イエス様のほうから話を持ち出された。ホントやさしいね。


神殿の維持費などのため納入金があるのだろうが、もちろんイエス様は神、礼拝されるべき方、弟子たちは

その子どもたちだから、当然払う義務がない。しかし、人をつまづかせないためにと言ってペテロの

得意技、釣りをして稼いで来いというのである。面白すぎ。しかも、魚を売るとかではなく、口を開けたら

二人分の納入金があるよって、手品みたいだ。


だいいち、払うなら財布からさっさと払えばいいのに、イエス様はあえてマジックのようなことをされた。

それは、あらかじめ魚がお金を呑み込んだことを知っており、しかもペテロがたまたま行って、どこで

釣りをするか知らないが、最初にその魚が餌に食いつくようにセットされてるってこと。


つまりは、そんなことができるんだから、自分の身に危険が迫っていることは百も承知、そして苦難を

避けようと思えばできるし、全てを支配することが可能なんだよ、だからなぜあえて十字架の道を選ぶ

のか、信仰を働かせて考えてごらん、そう言っておられるような気がするのだ。弟子たちはイエス様が

不本意ながら捕われて死刑になってしまう、と考えていたかもしれない。しかし、実際はそうではなく、

イエス様は、自ら進んで十字架へと向かって行かれた。私の罪の罰の代わりとなることを選んで。


(適用)


 ・神様以外のものに頼らない → 自分の考え、経験 他人の言葉よりも神様の声に聞き従う


 ・神様には何でもできると信じ、行動する。


◎天からのしるし(イエス様が神の御子であるというしるしか?)を求めた律法学者たち


 → イエス様が神の御子であるという洞察を与えるのは父の御霊。いくら「しるしと不思議」を見ても、

    悟らなければ、何も得られない。特に聖霊を拒絶した彼らには無理である(12:24-32)


◎パリサイ人とサドカイ人のパン種 - 人々を混乱させる教え


 弟子たちはパンを忘れてしまったことに気を取られ、イエス様の教えを悟ることができなかった。


 ⇒ イエス様は信仰の欠如と指摘された(見かけのこと、目に見えることにしか着目できない)



みことばを聞く → 信仰が働く → 悟りを得る → 悟りに基づいて行動する → スゴイことが起こる →

     (読む)            (真理を発見する)


 → 他の人に噂する → 周りの人もイエス様に近づく → 神の国が広がる



このようにして見ると、神の国は信仰から出発していることが分かる。というか、信仰がなければ何も

起こらないといったほうが正解か。


◎岩上の教会


イエス様は、いやしや奇蹟を通してご自分が何者かを証しされたが、結局のところ人々は、イエス様が

誰であるかをはっきり悟ることができなかった。そして、核心の質問が・・・


「あなたがたは、私をだれだと言いますか。」


「あなたは、生ける神の御子キリストです。」   ファイナルアンサー!! (゚◇゚;)☆\(-_-;)バシッ!


この悟りこそ、イエス様が期待しておられたものだったのだろう。様々ないやし、しるしと不思議を行ない、

とっても不信仰な弟子たちと共に歩まれた目的はこの事実を悟らせるためだった。そしてこの悟りの

ゆえに、イエス様は教会を建てようとおっしゃられた。


「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。

 ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなた 

 が地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天において

 も解かれています。」


ここでわかることは、教会を建てるのは、イエス様ご自身であること。しかもイエス様の教会を建てると

言われた。しかし、この岩って何のことだろうか?ペテロ?イエス様がペテロの上にイエス様の教会を

自ら建てる!?おそらく、「この岩」とは土台のことではないか(当たり前?)新改訳聖書の脚注を見ると、

ペテロ、と岩には違うギリシャ語が当てられていることからしても、ペテロ自身が土台というわけではなさ

そうだ。(しかも23節では下がれサタンと叱責を受けてるし・・・)


とするとこの岩とは、イエス様を「生ける神の御子キリスト」と告白させた信仰ではないか。そうすると、

決してペテロが偉大だったわけではなく、「このことを明らかに示したのは人間ではなく、天にいます

父です。」とイエス様が言われたように、天のお父さんがスゴイと思う。


であるなら、23節の「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わな

いで、人のことを思っている。」という強烈な言葉も、ペテロという存在よりは、彼の人間的な思慮、不信仰

であるとも考えられるかな。それとも悪魔がペテロの口を利用して・・・???


イエス様が十字架と復活について預言したとき、ペテロは自分、あるいはイエス様の肉体のいのちを救おう

と考えたため、信仰を働かせることができなかった。やはり、信仰がないとただのフライング男か。でも

このキャラ、好きかも。弟子として生きる、信仰によって生きるには代価を払う必要があるのだね。

見えるものに頼らず、自分自身すら支配しない生き方。言うのは簡単なんだけどね。そうなりたい。


(適用)


 ・神の計画と自分の生きる目的をもう一度信仰の目で見直す

  → キリストに似た者となるために今できることをする

◎宗教的な行ないに専心する律法学者、パリサイ人たち


 → 「パンを食べるとき手を洗わなければならない」 ・・・ 先祖からの言い伝え(忠言)


確かに不潔な手で食事ををすることは衛生上好ましくないが、それは人間の健康を守るためのもので

あって、言い伝えを守り行なうことが目的ではない。宗教家たちは言い伝えや伝統を守ることによって

自分たちの正しさを証明できると考えていた。


宗教的な行ないを守ることに専心すると、人や神様を愛する心が無くなるのではないだろうか。

神様は人間をロボットとして創られたわけではない。もし、神様が人間と付き合い、関係を深めたい

と思わず、自分の都合のためだけに人を創るのなら、良い行ないしかできないようにプログラムしたら

すむ。けれども人は自由意志をもち、自ら神様を知り、愛するか拒むかを選択することができる。

だからこそ多くの失敗をしつつも、神様を愛することを学び、仕えることに意味があるのだと思う。

神様が求めておられるのは結果だけではなく、いかに神様と人を愛するがゆえに従うかという心だ。


「口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。しかし、口から出る

ものは、心から出て来ます。それは人を汚します。」 (18節)


心に悪い思いがあるとそれが口をついて出てきてしまう。語る言葉に気をつけねばならいない。



◎娘が悪霊につかれて困っている異邦人の女

 この女に対するイエス様の態度は、これより先にも後にも見られないほどの特殊な態度だった。



女) 「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」


 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった - 無視かよ~  ( -_-)沈黙


弟) 「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」


イ) 「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」


女、なおもすがりついて、イエスの前にひれ伏して、

女) 「主よ。私をお助けください。」


イ) 「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです。」


女) 「主よ。そのとおりです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」


イ) 「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」


 → そのときから娘はなおった


イエス様がいつになく冷たいような態度を取っていることにも驚いたが、この女性の確信というか、

信仰(なのか?これは)には本当にビックリだ。無視し、異邦人だからと門前払いし、人を子犬扱い

するほうもするほうだが、「そうなんです、私は人でなく犬かもしれません。でもね、落ちたパンくず

をペロペロ舐めることくらいしたっていいでしょ」って、 オイ! いったい全体この二人の会話は

何なんだろう。ついていけないぞ~  ~\(-_-)/~オテアゲ


自分だったら無視された時点でガッカリしそうだし、何とかひれ伏してお願いしたとして、子犬呼ばわり

されたら、きっと恥ずかしさと屈辱感、怒りなどで茫然としてしまうように思う。イエス様のことだから、

この女の持つ信仰に気づいていたのかもしれないが、この女性の持つ信仰には自分もイエス様も

ビックリです。


それとは対称的に対照的に、その後の弟子たちは、いまだ信仰を働かせることができなかったようだ。

以前と同じようなシチュエーション、へんぴな場所におおぜいの腹を空かせた群衆、とても足りない

少量のパン - そう、前の章(といっても時間的な隔たりがどれほどかわからないが)でイエス様が

5千人の給食の奇跡をおこなったばかりなのに、どうしたものかと思案してしまう。


やはり、信仰というのは見たもの、聞いたものから何かを悟るところから始まるのだな。


(適用)


 ・口から出る言葉に気をつける(というか悪い心を持ち続けないように罪を告白する)


 ・あきらめない信仰をもつ(イエス様が何者かを思い巡らし、宣言する)

  → 母の病気のこと、セルの増殖のこと、地域が変えられて祝福されることを信じて祈る

ヘロデ - 妻ヘロデヤ - 娘 ⇒ 共依存 関係であった?


律法に背いて義姉妹を妻にしてしまったヘロデ王、自分にとってうるさい存在であるヨハネを他人の手で

殺した妻ヘロデヤ、その母親の言いなりで、自分の意思で行動せず、殺人であっても良心を働かせること

をしない娘。特にこの娘は重症だと思われる。


ヘロデ王 VS イエス様(ユダヤ人の王=マタイ2:2)


ヘロデは王としての権威、力を自分の欲望のために濫用していた。しかしイエス様は王としての権威、力

を人々の必要を満たし、助けるために用いていた。


→ 5千人の給食


ヨハネの福音書6章を読むと、5つのパンと2匹の魚を持っていたのは少年だったことがわかる。どのような経緯で少年が弁当を持っていることを突き止めたのか分からないが、おそらく少年が恐る恐る差し出した

のではないか?


確かに少年一人の弁当があったからといって、男だけで5千人以上いる群衆を前に、どうすることも

できないように見える。ここでどうするかが、信仰を働かせるかどうかの分岐となる。


さて、イエス様は少年から弁当を取り上げた・・・ いやいや、少年が奉げたと言ったほうが正しいか。

そして信仰を働かせてパンを裂き、与えると・・・ 何とパンが増える、ふえる、フエル・・・ 魚も・・・

結局彼らは腹いっぱい食べたのに、残ったパン切れを集めると、12のカゴにいっぱいだというのだ。

最初と比べるとどれだけ増えたんだろう。ここで学ぶべきことは、


 ・たとえちっぽけなものでも、喜んで奉げるなら神様はそれを祝福して増し加え、用いてくださる


 ・この奇蹟はマジックショーではなく、イエス様が何者なのか、どのような力と権威があるかを悟るチャンス


この奇蹟によって弟子たちがさらなる信仰、神様に対する信頼をもつようにイエス様は願っておられた。


と、いうわけで、やってきました実践編。


「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その

間に群集を帰してしまわれた。」 (14:22)


あっ、やっぱりな~ これから弟子の身に何が起こるかご存知だったんだ。弟子たちの何人かは漁師だったから天候を見ながら、イヤ~な予感を持っていたかもしれない。ともあれ、弟子たちは一所懸命舟を漕いでいたが、案の定?風が向かい風のため、思うように進まず、苦労していた。


そして、夜中の3時頃・・・ 弟子たちはありえない光景を目撃したのである。 それは、ナント、イエス様が

湖の上を歩いてやってきたのである!


 Σ(*'0')/ アレハナンダ!   ~~(m´ρ`)m   キタ ━━(゚∇゚;)━━ !!!!!  \(≧∇≦)/キャー!


そりゃ、ビックリもするよね。舟で漕ぎあぐねているってのに水上歩行で追いついて来られれば、「あれは

幽霊だ~!」ってすっかりおびえて叫び声をあげてしまうよ。


でもイエス様は優しい。すぐに話しかけて安心させる。さて、ここでまたまたビックリすることが起こる。

なんと、ペテロが信仰を働かせて舟から一歩踏み出す決心をしたのだ。


「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」

ペテロはイエス様の奇蹟を見、今やっと信仰を働かせて行動するための第1歩を踏み出そうとしている

場面である。この試みは途中、ペテロが風を見てこわくなり、沈みかけたことにより失敗に終わるが、

「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言われたイエス様はどのような気持ちだったのだろうか。

舟の中にいた弟子たちの告白からすると、むしろペテロをほめてあげたかったんじゃないか、と勝手に

推測してみる。


「確かにあなたは神の子です」 (33節)


この言葉こそイエス様が人々の必要を満たし続けてきて、悟らせたかった真理ではないかと思う。

ペテロは舟の中でじっとしていたら少なくとも自分の身の安全は確保できただろう。しかし、信仰に

よって行動することによって、真理を知るきっかけになった。


私の所属しているICBCという教会の2004年度ビジョンがこの舟から飛び出すこと、


「箱から出りん」 であった。方言で申し訳ないのだが、訳すと 「箱から出ましょう」という意味である。

自分の理性で考えられる範囲で小さくまとまるのではなく、神様に信頼して一歩外に出ましょうよ、

自分の殻に閉じこもるのではなく、神様と人々を愛するためにチャレンジしましょうよということだ。


そのためのカギはやはり信仰。


 からし種ほどの信仰 ⇒ 増え広がる ⇒ 風や湖が静まる(自然界の法則を超える)


 5つのパンと2匹の魚 ⇒ 増え広がる ⇒ 5千人以上の人が満腹に(まさに奇蹟!)


(適用)


 ・団地に神の国が広がるために信仰をもって行動する

  → Sさんのお宅に遊びに行ってみよう (彼らの必要は何だろうか?)


 ・母の体に奇蹟が起こることを信じて祈る 奇蹟を見て家族が救われたらいいな

  ことばによって信じるのでないなら、業によって信じてもらう (ヨハネ14:11)

天の御国の特徴


 ・からし種のように小さく始まるが、生長して大きくなる

 ・パン種のように、わずかな種が多くの粉を膨らませる

 ・畑に隠された宝や真珠のように、発見者は持ち物全部を犠牲にしてでも手に入れたがる

 ・地引き網で魚を選り分けるように、正しい人、悪い人を分ける


麦と毒麦は、生育初期のころ見分けるのが難しい植物らしい。神は憐れみ深い神だ。もし神が地上に

いる悪人を即座に集めて裁かれるなら、誰も悔い改めるチャンスが無くなってしまうかもしれない。

私もその一人だろう。この地上、日本の国がまだ裁かれていないのは、まだまだ収穫である世の終わり

までに救われるべき人々が畑(この世界)にあるからである。


一見、麦か毒麦か見分けがつかないようでも、よく観察してみるとその人が良い心、聞く耳があるか

どうかわかるはずだ。



郷里の人々の不信仰


 イエス様の郷里の人々は、イエス様の教え、力ある業を見たが、本当のイエス様が誰かを悟ることが

 できなかった。彼自身と家族を人間的に知り過ぎ、信仰を働かせることができなかったからである。


「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを

 知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」 (2コリント5:16)


イエス様を単なる知識で知っていたとしても、そこから信仰を働かせて、神の御子であることを悟らな

ければ、何の益にもならない。それこそマタイ13:14-15で語られている状況になってしまう。


(適用)


 ・天の御国を自分、家族、セル、地域にもたらすため、まず小さなことから始める

  → 自分と家族、セルから罪を取り除く 地域の人との接点を探す(あるいは作る)


 ・地域に出かけて祈る

種まきのたとえ


道ばたに落ちた種 - 心が固く、みことばを聞いても心に入っていかない。悟らない。


岩地に落ちた種 - 聖書の良い部分をすぐに受け入れる。聖書通りに生きようとしない

               → 困難、試練があると逃げ出す


いばらの上に落ちた種 - 様々な誘惑、世の中の関心事に心を奪われている。実を結ばない。



上記3つのタイプは結局実を結ばなかった。福音に対して、どのような反応を示すかは人それぞれだが、

最終的に実を結ぶ(キリストに似た者となる)のは、良い地、聞く耳のある者だけである。 → 弟子


良い地とは - みことばを聞いて悟る人 (聞いて実行する人) 成長を妨げられることなく、百倍、

六十倍、三十倍の実を結ぶようになる。


(適用)


 ・みことばに根ざし、生きるために聖書箇所を暗記する。


パリサイ人の非難 - 律法とは、~してはならない、というように常に人の行動を縛りつけようとする。

パリサイ人たちの非難も、ちょうどイエス様の弟子たちに向けた束縛だった。イエス様はしばしば弟子

たちに手厳しい印象があったが、彼らを度々フォローし、弁護するシーンがあることに気づく。


もし、人が律法の命じる行ないを完全に行なおうとするなら、人に見える表面は正しそうにふるまう

ことはできるが、やはり心が伴わないため、機械的な反応になり、そのように生きていない人を攻撃

し始めることになる。心の中は憐れみのない冷たい心、醜い思いが支配しているだろう。イエス様は

心の思いをとても大切にしておられるのだ。


ところで、イエス様をおとしめることに失敗したパリサイ人たちだったが、「出て行って、どのように

イエスを滅ぼそうかと相談した」(14節)とある。安息日に一体何をしてるのだろうか?



聖霊に逆らう罪 - 聖霊を拒絶すること


  もし聖霊さまの支配を拒絶するなら、自分のうちにはもはや神はいないことになり、何の力もなく、

  ただ罪の中に留まって死ぬだけである。


(適用)


 ・喜んで自分自身を聖霊さまに明け渡す - 心の中を点検し、悪い思いを取り除く


 ・何かをするとき、心から喜んで行なう - 宗教的な行ない、心の伴わない奉仕、仕事を避ける

  

バプテスマのヨハネ


 「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」(3節)


彼は捕らえられており、獄中でキリストのわざについて伝え聞いた。そしてなぜかキリスト(メシヤ)

イエスについて心が揺れ動いた。以前、「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授け

になります。」と宣言していた彼がである。


 どのような心境の変化があったのだろうか?


イエス様のミニストリ-は、おそらくそれまでの預言者たちのスタイルとはかなり異なった、型破りな

方法だったと思われる。ヨハネがイメージしていたメシヤとは違っていたのかもしれない。しかし、

それよりももっと大きな理由があるような気がする。これはあくまで予想なのだが・・・


「神である主の霊が、私の上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の

傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、・・・」


上記の箇所はイザヤ書61:1で、来るべきメシヤ(キリスト)の登場を預言した箇所である。(ルカ4:18-21)

ここで注目したのは、青字の 囚人には釈放を告げ という部分である。その他の箇所は群衆たちの

身に起こったことである。しかし、ことヨハネに関する限り、囚人となった彼が釈放されることはなかった。

後のマタイ14章を見れば、彼が首を刎ねられたことがわかる。


うむむ、やっぱりヨハネも人の子ってこと? - いんや、私はそうは思わない。なぜなら、ヨハネが

何者なのかが重要だからだ。彼は預言者だった。預言者にとって神のことば(メッセージ)以上に

重きを置いているものは、神ご自身以外にないのではないか。であるならば、神のことば、神の

みこころが実現していない状況を見て少々うろたえたとしても、理解できる。だって語った言葉が

実現しなかったら偽預言者だもの(聖書)。まして問題が自分の状況とかぶっていれば、やはり信じ

たい気持ちとまさか、という気持ちが交錯していたのかもしれない。


私の私見では、預言者ヨナも同様の理由で神様の命令に従わなかったり、へそを曲げたのでは

ないかと思っている。(もう40日したらニネベは滅びると預言したものの、王をはじめ、民衆が悔い

改めたため、実際には40日後滅びなかった)もちろんどんな結果があろうとも、しもべは忠実に

従うべきで、ヨナも相当変わり者だったに違いない。


では、この 囚人には釈放を告げ という預言は反故にされたのか?そんなことはない。ヨハネの

身には起こらなかったが、バラバという乱暴者がイエス様の代わりに釈放されているし、囚人が釈放

されるという最大の出来事は、やはり ”わたし” という罪による死の囚人が、キリストを信じる信仰に

よって、釈放されたことであろう。


預言者よりもすぐれた者


まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は

出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。11:11)


ここでのイエス様の意図は、決してヨハネをヨイショと担ぎあげることではなかった。


女から生まれた者=肉によって生まれた者とすれば、天の御国にいる者とは、御霊によって

生まれた者と言える。(ヨハネ3:5-6)


この地上でたとえどんな立派な業績をあげたとしても、ビジネスに成功し、巨万の富と地位を築いた

としても、霊によって新しく生まれる、新生を体験していないなら何の意味も持たない。


(適用)


 ・疲れた人、重荷を負っている人を見つけてイエス様を紹介する、あるいは自分がイエス様の

  人格を表すことで、神様の愛と憐れみを伝える。