私が一人で稽古しているのを外から見ていた人たちが何人かいて、しばらくしたら教えて欲しいと言ってきました。
へええ、そういうニーズがあったのか!?と思いました。
であればということで、即席で募集ポスターを作り、集会室の掲示板に10日間だけ出して、反応を見ることにしました。

そうしたところ、まずは6人ほどの老若男女が集まったのです。
その後1年ぐらいの間に、さらに4~5名来ました。
まあ、嬉しいと言っちゃあ、嬉しいですよね照れ
私も、一丁前に他人に空手を教える立場になるのですから(爆)。

この時点で、すでに私は昔の”勘”とかスタミナを取り戻しつつありましたので、教えることに対して躊躇や違和感はありませんでした。
また次の「その4」で書きますが、この当時は教えることに並行して、自分の実力とはいったいいかなる程度なのかを知りたいと熱望した時期で、有名空手家のいろいろなセミナーに出たり、ネットで知り合った二段から五段程度の若手を中心とする空手家達との稽古オフに積極的に出ていました。
一部の人達には、私の稽古場(集会室)に来てもらって、一緒に稽古したりしました。
この期間は、復帰後から5年ぐらい続きましたかね。


さて、教える立場となったものの…。


結論から言うと、皆さん長続きしませんでしたね。
当時の私はとにかく空手を追求し極めることに夢中になっていて(まあ、それは今も変わりありませんが)、はっきりいって稽古量が多く、時間も長く、そして約束組手や小手鍛えでもかなりシンドい鍛錬をやっていました。
そのため、初心者や中高年向けに簡略化したメニューで教えたとはいえ、それでも大変だったようでごく一部の生徒以外は付いてこれなかったのです。

中高年の人達は、ほぼ6か月前後で辞めました。
中高年で2人だけ1年もった人がいましたが、そのうちの一人は1年やれたことで自信と欲が出て来てしまい、きちんとした黒帯を欲しがるようになってしまいました。
そしてまもなく、型中心の別流派の道場に通うというので辞めました。
ある意味、かなりドライな人でしたね(苦笑)。
その後、2年ほど続けたようですが、結局4級どまりで茶帯にもなれずその道場も辞めました(のちにご本人にばったり会って聞いた話です)。
空手を甘く見ると、こういう中途半端な結果に終わります。
50歳近かったのにゼロから空手を習おうとヤル気を出したことは大いに称賛されるべきですが、やっているうちに実力不相応な自信と欲が出てしまったせいで、結果はついてこなかったようです。


10人以上いた生徒の中で、私の稽古について来れたのは2人。
一人は当時小学6年生で、私がやるキツい稽古はさすがにやらせることは出来ませんでしたが、なんといっても勘が良く、負けず嫌い、しかも素直で熱心でした。
実はこの小学生は「その2」に書いた英会話教室にも来ていて、私が二段や五段の女性空手家を全然相手にしていなかったのをしっかり見ていました。
そして私が募集を掛けた途端に、イの一番で入会してくれたのです。

ところが半年後、親の仕事の都合で突然遠いところに引っ越しせざるを得なくなり、辞めてしまいました。
続けていれば、かなり上達したと思います。
まあ、今もどこかで別の流派で続けているのかもしれませんが…(そうあってほしいですね)。


二人目は、外資系大企業の日本支社に勤めるエリートサラリーマンのドイツ青年。
当時27歳だったか、身長1m90cm、体重80Kg以上の偉丈夫です。
年齢は私より30年も若いのでスタミナがあり、私より20cm以上も背が高く、彼の突きは二階から突き下ろすような迫力がありました。
また彼の骨の硬さといったら!!
毎回やる小手鍛えは、ホント私の方が鍛えられましたよ爆  笑
日本人にはこういう骨の硬さはないですね。

彼とはかなり自由組手に近い約束組手、上半身だけに限定した自由組手など、ここぞとばかりに半年ほど相対稽古中心にやりました。
富樫さんの無門会の約束自由組手に倣って、目突きや金的蹴りを想定した練習とか、顔を打ち抜くと称して顔の横すれすれ(数cm)のところに正拳を入れる訓練とか。
そう!打ち抜く訓練を徹底しましたね。
と言っても、この打ち抜く訓練、私が大男の彼を標的にさせてもらって、主に私のためにやっていました(爆)。
彼には、そこに立ってもらっていたというわけです。
だから、彼自身の目がビビっているのも良く分かりましたっけ。

そしてある日、私は彼の二階からの突きを受けようとして右手親指が接触して皮膚を破砕し、またも骨折。
集会室の床に血が点々と飛び散りました。
全治2か月の重傷。
これでまた、家族には要らぬ心配と無駄な費用をかけてしまったわけです(苦笑)。

ま、この怪我は、以前の左足踵粉砕の時のような大事には至らず、単なる軽い骨折で済みました。
マジにお互いの手指が激突してしまったわけで、骨の硬い彼が打ち勝ったということになりますね。
おかげで、稽古はいつも通りいつものメニューを続行出来ました。

残念ながら、彼は2011年3月の福島原発事故のために5月には帰国せざるをえなくなってしまいました。
ドイツに住む両親から、帰って来い!の矢の催促だったようです。


ということでこの少年とドイツ青年、この2人がもう少し続いていたら、今ならかなり強くなっていると思うだけに、残念ですね。
武の縁がなかったのでしょう。

では次の「その4」にて、当時いくつか行った有名空手家のセミナーとかオフ会などで交流した若手空手家などの話をしたいと思います。

(その4に続く)