さて、英会話を楽しみながら空手を教えるというスタイルは、今では普通にある英会話学校なのかもしれませんが、当時としてはあまり聞いたこともない変テコな英会話学校だったかもしれません(爆)。
現地で一応黒帯なるモノを習得し日本に空手を学びにやって来た、または就労ビザのようなもので就職するために日本に入国した英語ネイティブな外人が、英語が喋れるという点だけでとりあえず講師となって、英会話しながら空手を子供たちに教えるのです。


しかしその1で書いたように、最初の米国白人女性(20歳代後半と思われる)は二段という割には上手ではなくて、しかもどういう事情か知りませんが1か月経たずに辞めてしまいました。
英会話学校の担当者(これは日本人)は、私が経験者だったことで、次からは私1人に対して教えるべく、講師を改めて探してきました。
そして小中学生対象のクラスは、別途設けたようです(苦笑)。

次に派遣されて来た米国白人女性は、50歳代の分別ある物分かりの良い年配で、アメリカでは有名らしい流派の五段ということでした。
しかし私が見た限り、年月だけは長くやっていて、落とさない審査によって段位が上がっていっただけのタイプ。
私とのマンツーマン稽古で、例えば相対稽古の時にあきらかに目に怯えを見て取りました。
この人も2か月足らずで辞めてしまいましたね(爆)。

度重なる講師の交代にこれは困ったということで、英会話学校の担当が次に探してきたのが、松濤館流二段で中達也師範の弟子だという、30歳前ぐらいのイギリス青年。
イギリスはシェフィールドの出身で、空手留学のために来日し松濤館に通っているそうです。

私から見て、彼の腕前は二段としてはまあこんなところでしょという感じ。
これなら安心。
私もじっくり稽古が出来ます。
もちろん英会話なんかどうでもよくて、私の場合はひたすら空手稽古に復帰するのが目的です(爆)。


このような顛末を経て、このイギリス青年とは約半年、週1回だったか2回やったか定かに覚えていないのですが1回2時間、とりあえずマジメに稽古を行いました。
彼は私も有段者であることを知っていましたので(私は最初から黒帯を締めていましたし)、松濤館流を強要されることはありませんでした。
彼は松濤館の流儀で、私は松林流の流儀で、共通メニューをこなすことにしたのです。
ところが回数を重ねるにしたがって、イギリス青年が沖縄空手そして松林流にも理解を示すようになりました。
そのため、1か月後には全く対等な立場となり、教える教わるというのではなく、合同稽古ということになりました。

彼とやったのは、主に基本、そして約束組手を中心とする相対稽古です。
中師範仕込みの素早さと切れの良さは、もちろん彼も持ち合わせていました。
その素早い動きや切れの良さに、こちらもいかに対応すればよいのか。
また従来の間合いの遠い約束組手の不備に対し、いかにそれを改善して実際の防御や攻撃のシチュエーションに近寄せていくか。

こういった問題点を洗い出し改良していくうえで、外人有段者と相対稽古するという貴重な機会をこの時に経験したことは、約半年という短い間だったとはいえホント良かったと思います。


このまま行けば、もう1~2年は一緒に稽古出来たはずです。
ところが、残念なことに彼は個人的事情で突然帰国しなければならなくなりました。
事情とは、イギリス本国で確固たる仕事が決まり、確かIT関連大手企業に就職するのだったと思います。
彼はイギリスの中堅有名大学を出ていましたから、それなりに高学歴エリートでした。
慌ただしく帰国しなければならない彼のために、寿司屋に一席設けて、英会話学校の担当者と3人で送別会を行ったのも、今となっては懐かしい思い出。


ということで、イギリス青年との半年の合同稽古によって、私はすっかりペースを回復しました。
ここから先は英会話学校を頼らず一人で稽古すると決め、英会話学校は速攻で退会しました。

そしてこの時点からさらに約1年ほどかけて、昔習ってきた松林流の基本、移動基本、形(型)、約束組手などを徹底しました。
今の私の稽古方式の原型が、この時に概ね出来たわけです。
2010年の秋には、とりあえず一端(いっぱし)の空手家として復帰出来たのを実感。
さあ!これからは空手稽古中心で行くぞ!!


そうこうしているうちに、私がマンションの集会室で毎週2回稽古しているのを窓の外から見ている何人かの人達がいました。
そして教えて欲しいとやって来たのです。
それじゃあ…とばかり、私は空手教室のチラシを作って集会室の掲示板に貼り、マンション内で生徒募集を始めました。

(その3に続く)