海老江八坂神社
福島区 旧町名継承碑 今開町1~2丁目
の次に訪れたのは
大阪市福島区海老江6-4-2にあります
海老江八坂神社
福島区 八坂神社 海老の宮
だと思ったのですが
海老江八坂神社と書かれていたので
こちらを採用
祭神は素盞嗚命
境内に天治(1125年ころ)とも大治(1130年ころ)とも読める灯籠があり、古社であることをしのばせる
また元亀元年(1570年)織田信長が野田城の三好一党を攻撃のとき、
戦勝を祈念して奉納したという太刀が残る
当社の年中行事の神事に、頭屋行事があり、大阪府選択の無形の民俗資料に指定されている
12月15日の日没後、特定の男子氏子で構成される
司祭組織の宮座の者が頭屋に集まり、
12か月の収穫を表わす供物をつくり、神前に献じる祭事である
これは古くからの祭事を、厳格に伝承する貴重な例である
次は 天皇陛下御在位60年記念碑 へ
の次に訪れたのは
大阪市福島区海老江6-4-2にあります
海老江八坂神社
福島区 八坂神社 海老の宮
だと思ったのですが
海老江八坂神社と書かれていたので
こちらを採用
祭神は素盞嗚命
境内に天治(1125年ころ)とも大治(1130年ころ)とも読める灯籠があり、古社であることをしのばせる
また元亀元年(1570年)織田信長が野田城の三好一党を攻撃のとき、
戦勝を祈念して奉納したという太刀が残る
当社の年中行事の神事に、頭屋行事があり、大阪府選択の無形の民俗資料に指定されている
12月15日の日没後、特定の男子氏子で構成される
司祭組織の宮座の者が頭屋に集まり、
12か月の収穫を表わす供物をつくり、神前に献じる祭事である
これは古くからの祭事を、厳格に伝承する貴重な例である
次は 天皇陛下御在位60年記念碑 へ
□ 福島区 旧町名継承碑 今開町1~2丁目
福島区 旧町名継承碑 大野町1~2丁目
の次に訪れたのは
大阪市福島区野田5-13-32
にあります
大阪市立野田小学校

何の建物だろう?と思っていたら小学校でした

このあたりの路地は入ったこと無かったんですよ
新たな発見です

その角で見つけた
福島区 旧町名継承碑 今開町1~2丁目
町名は西成野田の小字名によるそうです
野田2丁目~3丁目・5丁目~6丁目
および吉野4丁目の各一部だそうです
より大きな地図で まっつんの旧町名継承碑訪問マップ を表示
次は海老江八坂神社へ
□ 福島区 旧町名継承碑 大野町1~2丁目
妙見宮
の次に訪れたのは
大阪市福島区野田5-9
にあります
大野町公園

その入り口にありました
福島区 旧町名継承碑 大野町1~2丁目

町名は西成野田の小字名によるそうです
野田2丁目~5丁目の各一部だそうですよ
より大きな地図で まっつんの旧町名継承碑訪問マップ を表示
次は福島区 旧町名継承碑 今開町1~2丁目へ
妙見宮
大阪市役所江之子島庁舎跡
の次に訪れたのは
大阪市福島区野田1-1-86
株式会社 山岩の隣にある
妙見宮
鳥居があったので行ってみました
きっとこのあたりの神様なんだろうなぁ~
どこから来たのか分からないけど
見つけることが出来ると嬉しいです
次は 福島区 旧町名継承碑 大野町1~2丁目 へ
の次に訪れたのは
大阪市福島区野田1-1-86
株式会社 山岩の隣にある
妙見宮
鳥居があったので行ってみました
きっとこのあたりの神様なんだろうなぁ~
どこから来たのか分からないけど
見つけることが出来ると嬉しいです
次は 福島区 旧町名継承碑 大野町1~2丁目 へ
木津川橋
天満宮神幸御上陸地碑
の次に訪れたのは
木津川橋
いつも何気なく通っていた橋
まさかここに案内板があるとは思わなかった
ここに書かれていたことは
木津川橋は慶応4年 川口と江之子島を結ぶ新大橋として架けられた
当時 川口には大阪開市・開港に備えて運上所(税関)が設置され
続いて居留地が設けられて 新しい町並みが出現しつつあった
また江之子島には明治7年に大阪府庁が建設されるなど
行政の中心地であった
木津川橋は明治9年には橋脚など一部鉄製となり
橋面には歩道と車道が分離された初めての橋となったが
明治18年の洪水で流出した
明治21年には輸入鉄材を使用した 橋長75.3m 幅員10.4mの鉄橋となった
その後 大正2年には市電の開通により
橋長72.2m 幅員21.8m の3径間の立派なアーチ橋となった
現在の橋は昭和41年に高潮対策事業の1つとして架け換えられた橋で
橋長75.55m 幅員21.60m の鋼桁橋である
次は大阪市役所江之子島庁舎跡 へ
の次に訪れたのは
木津川橋
いつも何気なく通っていた橋
まさかここに案内板があるとは思わなかった
ここに書かれていたことは
木津川橋は慶応4年 川口と江之子島を結ぶ新大橋として架けられた
当時 川口には大阪開市・開港に備えて運上所(税関)が設置され
続いて居留地が設けられて 新しい町並みが出現しつつあった
また江之子島には明治7年に大阪府庁が建設されるなど
行政の中心地であった
木津川橋は明治9年には橋脚など一部鉄製となり
橋面には歩道と車道が分離された初めての橋となったが
明治18年の洪水で流出した
明治21年には輸入鉄材を使用した 橋長75.3m 幅員10.4mの鉄橋となった
その後 大正2年には市電の開通により
橋長72.2m 幅員21.8m の3径間の立派なアーチ橋となった
現在の橋は昭和41年に高潮対策事業の1つとして架け換えられた橋で
橋長75.55m 幅員21.60m の鋼桁橋である
次は大阪市役所江之子島庁舎跡 へ
阿波堀川跡碑
玉江橋
の次に訪れたのは
大阪市西区江之子島2-1 大阪西郵便局角にあります
阿波堀川跡碑
西郵便局の辺りとは住所で分かりましたが
角の茂みの中にありました
不審者に間違われないかなぁ~
と思いつつも手摺を乗り越え間近で確認
阿波堀川跡の碑を発見
ココに書かれていたことは
阿波堀川は西区では最も古く
慶長5年(1600年)に開削され
西横堀川から分流し 百間堀川に流入していた
途中 八橋が架かり 上流南側一帯は
解船町とも呼ばれ
解船業者や廃船の古材で器物を作る家が多かった
昭和31年9月に全部埋め立てられた
次は 天満宮神幸御上陸地碑 へ
大阪市西区江之子島2-1 大阪西郵便局角にあります
阿波堀川跡碑
西郵便局の辺りとは住所で分かりましたが
角の茂みの中にありました
不審者に間違われないかなぁ~
と思いつつも手摺を乗り越え間近で確認
阿波堀川跡の碑を発見
ココに書かれていたことは
阿波堀川は西区では最も古く
慶長5年(1600年)に開削され
西横堀川から分流し 百間堀川に流入していた
途中 八橋が架かり 上流南側一帯は
解船町とも呼ばれ
解船業者や廃船の古材で器物を作る家が多かった
昭和31年9月に全部埋め立てられた
次は 天満宮神幸御上陸地碑 へ
玉江橋
浄正橋跡碑
の次に訪れたのは
大阪市福島区福島1丁目と大阪市北区中之島4丁目に架かる橋
浪速の名橋50選にも選ばれている玉江橋
ここに書かれたいた事は
この橋の架かる堂島川に本格的な架橋が始まったのは
元禄初期(1690年頃)と考えられる
この玉江橋もそのころから 堀江橋の名で架かっていた
その後 元禄11年(1698年)になって堀江川 が開削され
そこに同名の橋が架けられたので玉江橋に改名されたという
当時の堂島川は大川につぐ大きな川幅をもち
安永9年(1780年)の記録によると
橋長 90.1m 幅員4.1mの規模をもつ反りの大きい橋であった
江戸時代 この橋の南詰めに薬師堂があって
縁日には多くの人出で賑わった
参詣の人々は橋の上からその延長方向(南東方向)を見ると
はるかかなたに四天王寺の五重塔が望見できたので
橋上から遙拝する習慣があった
高層建築物に囲まれた今日では
想像も出来ない情景であるが
当時の各所図絵の類には多く登場している
現在の橋は昭和4年9月の第1次都市計画事業によって
橋長 77.0m 幅員 12.3m の橋に架け替えられ嵩上げすると同時に
下流側に橋長 78.8m 幅員12.3mの橋が新しく架けられた
福島の方から撮影するとこんな感じです
次は阿波堀川跡碑 へ
大阪市福島区福島1丁目と大阪市北区中之島4丁目に架かる橋
浪速の名橋50選にも選ばれている玉江橋
ここに書かれたいた事は
この橋の架かる堂島川に本格的な架橋が始まったのは
元禄初期(1690年頃)と考えられる
この玉江橋もそのころから 堀江橋の名で架かっていた
その後 元禄11年(1698年)になって堀江川 が開削され
そこに同名の橋が架けられたので玉江橋に改名されたという
当時の堂島川は大川につぐ大きな川幅をもち
安永9年(1780年)の記録によると
橋長 90.1m 幅員4.1mの規模をもつ反りの大きい橋であった
江戸時代 この橋の南詰めに薬師堂があって
縁日には多くの人出で賑わった
参詣の人々は橋の上からその延長方向(南東方向)を見ると
はるかかなたに四天王寺の五重塔が望見できたので
橋上から遙拝する習慣があった
高層建築物に囲まれた今日では
想像も出来ない情景であるが
当時の各所図絵の類には多く登場している
現在の橋は昭和4年9月の第1次都市計画事業によって
橋長 77.0m 幅員 12.3m の橋に架け替えられ嵩上げすると同時に
下流側に橋長 78.8m 幅員12.3mの橋が新しく架けられた
福島の方から撮影するとこんな感じです
次は阿波堀川跡碑 へ




