E-smile まっつんの日常 -1721ページ目

大阪開港の地碑

明治天皇聖躅碑 in 大阪税関富島地区指定保税地域内
の次も大阪市西区川口2-9
大阪税関富島地区指定保税地域内にあります
大阪開港の地碑


E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

長い鎖国の後諸外国への玄関口として
明治2年7月15日この地を開港場とした
世界とつながる今日の大阪港繁栄の端緒となる

と書かれてありました

次は大阪電信発祥の地碑

明治天皇聖躅碑 in 大阪税関富島地区指定保税地域内

お地蔵さん 西区川口4-8
の次に訪れたのは
大阪市西区川口2-9
大阪税関富島地区指定保税地域内にあります
明治天皇聖躅碑

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横手には
川口運上所跡
富島外務局跡 
と書かれてありました

川口運上所跡 とは・・・・

大阪開港の前年の慶応3年(1867年)川口に川口運上所が設置され
明治元年5月1日 外国官判事五代才助(友厚)
同陸奥陽之助(宗光)両人が事務をとり開所した

ついで東町奉行所跡の外国事務局廃止にともない、
その事務も引き継いで外国事務局とも呼ばれ、税関事務も処理した

開港後の大阪港の貿易不振で、大阪税関は神戸の出張所のようにみられたが
明治30年代の貿易の発展により、同33年大阪税関として独立した
庁舎はすでに明治8年から富島に移っていたが
大阪港の移転計画と同様に築港への移転が計画され大正9年に実現された
現在は大阪税関富島出張所となり
大正14年5月大阪市青年連合団の建立した「川口運上所址 富島外務局址」の碑がある

これで
明治天皇聖躅碑in リーガロイヤルホテル大阪
明治天皇聖躅碑in 大阪城
明治天皇聖躅碑 in 日本郵政公社 近畿支社
明治天皇聖躅碑 in テレパーク堂島
明治天皇聖躅碑 in 大阪市役所
と 合わせて 6体目

結構あるもんだなぁ

次は 大阪開港の地碑

お地蔵さん 西区川口4-8

三井倉庫・富島倉庫 の次に訪れたのは
大阪市西区川口4-8あたりにあります地蔵尊

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作りがきれいなので最近なのかなぁ~と思いつつも
名前がない・・・
それが残念

次は  明治天皇聖躅碑 in 大阪税関富島地区指定保税地域内

三井倉庫・富島倉庫

古川跡 の次は安治川沿いに進んで行き見つけたのは
大阪市西区川口4-9あたりにあります
三井倉庫・富島倉庫

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この赤レンガが何ともいえず良いですよね
開口の上のアーチ型の装飾も良い感じ

安治川を渡れば大阪市中央卸売市場
こんなに近いのに知らなかった・・・・

次はお地蔵さん 西区川口4-8

古川跡

河村瑞賢紀功碑 の次も
大阪市西区安治川1-1-48あたり
河村瑞賢紀功碑の隣にあります
古川跡

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表から見た様子


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裏から見た様子

大阪府の防潮工事にともない 昭和27年11月
この地点から東 安治川に至る
長さ150m 幅15mの古川を埋め立た

と書かれてありました
読みにくかったです

次は三井倉庫・富島倉庫

河村瑞賢紀功碑

本田公園 母子像 の次に訪れたのは
大阪市西区安治川1-1-48あたりにあります
河村瑞賢紀功碑

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裏面はこんな感じ

E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

案内板がちかくにありました

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ココにはこう書かれてありました

もとの九条島(衢攘島)はデルタ地帯で
たび重なる淀川洪水のため被害の絶え間がなかった
そこで貞享元年(1684年)2月 幕府は治水の専門家である
河村瑞賢に命じ九条島を掘り割り 淀川の水を一直線に大阪湾へみちびくこととした
4年の歳月を費やして 貞享4年に開削されたのが安治川である
はじめは新川と呼ばれたが 元禄11年(1698年)
この地が安らかに治まるようにとの願いをこめて 安治川と改名された
氾濫する淀川の水を直接海に導入するバイパス的存在である
この川の完成によって 同じく西成郡九条村であった一部が分かれて
現在の西九条になった
河村瑞賢の紀功碑は、大正4年8月に国津橋に建てられた

安治川が開削時に新川と呼ばれたのに対し
もとからあった川は古川と呼ぶようになった
この川は昭和27年11月、大阪府の防潮堤工事にともない埋立てられ
元の古川西端国津橋の地に 河村瑞賢紀功碑と並んで
昭和34年1月大阪府によって「古川跡 」の碑が建てられた

次は古川跡

本田公園 母子像

龍渓禅師墓 の次に訪れたのは
大阪市西区本田3-8にあります
本田公園

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公園の隅で見つけた石像

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何かと思って近づいていくと
横たわる 母子像でした


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こちらは 足もとから写した様子

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次は 河村瑞賢紀功碑

龍渓禅師墓

黄檗宗 霊亀山 九島院 の次も
大阪市西区本田3-4-18にあります
黄檗宗 霊亀山 九島院

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こちらも入口にかいてありました 龍渓禅師墓
(本来は寺内にあるのですが・・・・)

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前にあった案内板によると
当院は寛永元年(1624年)と云われる
寛文10年(1670年)8月13日 当地に大暴風雨来襲時に
開山龍渓禅師は従容として坐禅のまま 水定死された
郷土の人は禅師を 「九条の人柱」と云われた

龍渓禅師は後水尾法皇が師僧と仰がれた徳川時代の高僧である
寺内には龍渓禅師の墓 飯田直好 他郷土先覚者の墓がある

さきほどと同じような文章だった

次は本田公園 母子像

黄檗宗 霊亀山 九島院

避難地蔵尊 の次に訪れたのは
大阪市西区本田3-4-18にあります
黄檗宗 霊亀山 九島院

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浄土宗 竹林寺 のような感じに見えるのは僕だけでしょうか?


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入口から見える感じはこんな感じ

九島院は霊亀山と号して黄檗宗(禅宗の一派)も属し
聖観世音菩薩を本尊とする
当山の草創は詳らかではないが 寛永の頃 幕吏 香西 晢雲と
土豪 池山 一吉が 衢攘(九条)島を開発し 「興禅庵」と称した

小庵を新田鎮護と五穀豊穣を祈念して 寛文3年(1663年)に
拙道和尚を迎え 「九島庵」 として祈祷道場にした

拙道は師の龍渓禅師を開山に仰いで開くが
寛文10年(1670)年8月15日 開堂法要の折
大亀花を背負って祝福に来たという故事により 霊亀山という

同年 8月13日 当地に大暴風雨と大津波が来襲
十数人の僧が水死 禅師はその時 坐禅のまま従容して水定死された

後世の人は禅師を 「九条の人柱」とよび その不慮の死を弔い
かつ又その死を無駄にせぬよう祈った

後水尾天皇は龍渓禅師の御弟子で 「大宗正統禅師」の特賜号を
下賜されていたが 同11年 詔を下して 毎年8月に水燈会を修し
国の災禍を払い 当地の五穀豊穣を祈願され併せて 禅師の菩提を弔われた

延宝8年(1680年)法皇が崩御されると 皇女 林寺宮光子内親王は法皇の御尊碑と
御念持仏の観音像 菊花御紋章入り香輿を下賜され
併せて当院の菊花御紋章を公許された

とかかれてありました

次は龍渓禅師墓

避難地蔵尊

茨住吉神社摂社 玉照稲荷神社
の次に向かったのは
大阪市西区本田3-2-13にあります
不動産 能美産業

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その角に 避難地蔵尊 と書かれたものがありました

E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

こちらには 2体お地蔵さんがいらっしゃったわけですが

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どちらが避難地蔵尊?

次は黄檗宗 霊亀山 九島院