浄谷寺・薬師堂
寺内町 葛原家住宅
の次に訪れたのは
浄谷寺・薬師堂
天保10年(1830年)建立
安置されている乾漆座像の薬師如来像は
信者の若い男女の恋文を漆で貼り重ねて作られたと伝えられています
毎年6月6日 16日 26日には南会所町・薬師堂界隈で
夜店が並ぶ縁日が開かれているそうです
こちらでも案内板を見つけました
ココに書かれていたことは
浄谷寺境外地(南会所町)に安置される薬師如来は
乾漆座像で胸に赤い卍が描かれ 特に衣などの美しい曲線は芸術的です
聞き伝えによれば仏像は信者の若い男女の恋文で貼り重ね
その上に漆を塗り固め金箔を押した像であるとのことです
慈悲深いお顔に村人の悩みや願い事をかなえていただき
また子供が産まれれば母乳が多く出るように最初の母乳をお供えし
子供の元気な成長を祈るなど多くの人々の厚い信仰を集めています
明治以前の大祭には 初夏の風情あふれる水饅頭 植木市 時代人形の出店をとりまいて
詠歌踊りなどにより連日盛んな催しが行われ近郷近在の人々から無病息災
身体堅固の守護仏と崇められました
しかし 明治の廃仏毀釈にあい その管理が一時 庄屋(本葛原家)に移管され
また名前を煙草屋薬師とも云われ 世に慕われてきました
次は寺内町 北野家住宅 へ
浄谷寺・薬師堂
天保10年(1830年)建立
安置されている乾漆座像の薬師如来像は
信者の若い男女の恋文を漆で貼り重ねて作られたと伝えられています
毎年6月6日 16日 26日には南会所町・薬師堂界隈で
夜店が並ぶ縁日が開かれているそうです
こちらでも案内板を見つけました
ココに書かれていたことは
浄谷寺境外地(南会所町)に安置される薬師如来は
乾漆座像で胸に赤い卍が描かれ 特に衣などの美しい曲線は芸術的です
聞き伝えによれば仏像は信者の若い男女の恋文で貼り重ね
その上に漆を塗り固め金箔を押した像であるとのことです
慈悲深いお顔に村人の悩みや願い事をかなえていただき
また子供が産まれれば母乳が多く出るように最初の母乳をお供えし
子供の元気な成長を祈るなど多くの人々の厚い信仰を集めています
明治以前の大祭には 初夏の風情あふれる水饅頭 植木市 時代人形の出店をとりまいて
詠歌踊りなどにより連日盛んな催しが行われ近郷近在の人々から無病息災
身体堅固の守護仏と崇められました
しかし 明治の廃仏毀釈にあい その管理が一時 庄屋(本葛原家)に移管され
また名前を煙草屋薬師とも云われ 世に慕われてきました
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寺内町 葛原家住宅
寺内町 南葛原家住宅の次に訪れたのは葛原家住宅

玄関先の親子格子が何となく好きです

案内板にはこう書かれてありました
葛原家は十津川の元郷士で 天明元年(1781年)頃に
当地で酒屋を始めたと伝えられている
しかし 現在の母屋が建てられたのはそれより後で
19世紀の始め頃の再建と考えられる
敷地内には主屋のほかに 東方に表玄関をもつ別屋敷と
土蔵が壺庭を「コ」の字形に囲むように配置されている
接客空間の奥に12畳半の広い書院座敷があり
当時の大商人の実力がしのばれる
次は浄谷寺・薬師堂 へ

玄関先の親子格子が何となく好きです

案内板にはこう書かれてありました
葛原家は十津川の元郷士で 天明元年(1781年)頃に
当地で酒屋を始めたと伝えられている
しかし 現在の母屋が建てられたのはそれより後で
19世紀の始め頃の再建と考えられる
敷地内には主屋のほかに 東方に表玄関をもつ別屋敷と
土蔵が壺庭を「コ」の字形に囲むように配置されている
接客空間の奥に12畳半の広い書院座敷があり
当時の大商人の実力がしのばれる
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富栄戎神社
新道町大師堂を後にして

坂を登っていく

お地蔵さんが民家の前にあるのもまた珍しい

後ろを振り返ると 富栄戎神社がありました

高さ的にいうとこんな感じ

富田林のえべっさんとして親しまれている富栄戎神社
すごく小さくてびっくりしました
江戸時代から明治初年にかけて富田林寺内町に酒屋の同業組合があり
それを「エビス講」と呼んでいました
戎神社はこの「エビス講」により祭られていました
戎神社はもともと新道中腹にありましたが 明治23年に新道をつける時に
今の場所に移し御神体はながらく喜志の宮におあずけしてあったのですが
終後富栄戎講ができ御神体を喜志の宮からお迎えして
盛大に祭られるようになりました とのことです
次は寺内町 南葛原家住宅 へ

坂を登っていく

お地蔵さんが民家の前にあるのもまた珍しい

後ろを振り返ると 富栄戎神社がありました

高さ的にいうとこんな感じ

富田林のえべっさんとして親しまれている富栄戎神社
すごく小さくてびっくりしました
江戸時代から明治初年にかけて富田林寺内町に酒屋の同業組合があり
それを「エビス講」と呼んでいました
戎神社はこの「エビス講」により祭られていました
戎神社はもともと新道中腹にありましたが 明治23年に新道をつける時に
今の場所に移し御神体はながらく喜志の宮におあずけしてあったのですが
終後富栄戎講ができ御神体を喜志の宮からお迎えして
盛大に祭られるようになりました とのことです
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新道町大師堂
金剛大橋
の次に向かったのが
新道町大師堂
途中で見つけて手をあわせました
由来のようなものが書かれてありました
この 「大師堂」 は昭和8年 「新道町会」 の人々が中心となって
この地に建立し 昭和62年 一部改修された
安置されている仏像は もと新道北町(新道小学校付近)の
「宝海寺」 にあったが 明治初期に廃寺となり
仏像等は小堂を設け祭祀された
明治末期に小堂を近くの「教蓮寺」に移されたが
その後 人あって この「大師堂」 の建立と共にその一部がここに移される
以後 毎月21日町会隣組輪番で 「新道町大師講」として祭祀されるとともに
町内会の集会施設として利用し 町会で大切に守り継承されている
平成3年 堺市博物館
平成13年 太子町立竹内街道歴史資料館で展示紹介された
次は富栄戎神社 へ
新道町大師堂
途中で見つけて手をあわせました
由来のようなものが書かれてありました
この 「大師堂」 は昭和8年 「新道町会」 の人々が中心となって
この地に建立し 昭和62年 一部改修された
安置されている仏像は もと新道北町(新道小学校付近)の
「宝海寺」 にあったが 明治初期に廃寺となり
仏像等は小堂を設け祭祀された
明治末期に小堂を近くの「教蓮寺」に移されたが
その後 人あって この「大師堂」 の建立と共にその一部がここに移される
以後 毎月21日町会隣組輪番で 「新道町大師講」として祭祀されるとともに
町内会の集会施設として利用し 町会で大切に守り継承されている
平成3年 堺市博物館
平成13年 太子町立竹内街道歴史資料館で展示紹介された
次は富栄戎神社 へ
寺内町 田守家住宅
寺内町 杉田家住宅
の次に訪れたのは
田守家住宅
この扉の向こうには生活感があふれています
生活されているのかなぁ
こちらでも 案内板を発見!
ココに書かれていたことは
当家の屋号は 「黒山屋」と称し 寛永年間にその祖先が黒山
(現在の美原町)からこの地に移住してきたところからこの名をとった
明治中頃まで 代々木綿屋を営んでいた
主屋は18世紀前半の建築と考えられ 寺内町に現存する町家遺構としては
旧杉山家 に次ぐ古い年代のものである
主屋の表側は大きく改造されていたが 近年外観の復元がほどこされ
歴史的町並みに大きく寄与している
次は中内眼科医院(元・国分銀行本社屋) へ
田守家住宅
この扉の向こうには生活感があふれています
生活されているのかなぁ
こちらでも 案内板を発見!
ココに書かれていたことは
当家の屋号は 「黒山屋」と称し 寛永年間にその祖先が黒山
(現在の美原町)からこの地に移住してきたところからこの名をとった
明治中頃まで 代々木綿屋を営んでいた
主屋は18世紀前半の建築と考えられ 寺内町に現存する町家遺構としては
旧杉山家 に次ぐ古い年代のものである
主屋の表側は大きく改造されていたが 近年外観の復元がほどこされ
歴史的町並みに大きく寄与している
次は中内眼科医院(元・国分銀行本社屋) へ
寺内町 杉田家住宅
浄土真宗 本願寺派 妙慶寺
の次に訪れたのは 杉田家住宅
玄関口はこんな漢じです
こちらでも 案内板を見つけました
ココに書かれていたことは
当家は代々 「樽屋善兵衛」と称し もとは油屋を営んでいた
「善兵衛」の名は 天保14年(1843年) 村方様子明細帳に
百姓代として載っている
住宅の建築年代は不明だが 18世紀後期の建築と考えられる
また 主屋の西方や西北方には 土蔵が所狭しと並んでいるが
その多くは油蔵であったと思われる
次は寺内町 田守家住宅 へ
の次に訪れたのは 杉田家住宅
玄関口はこんな漢じです
こちらでも 案内板を見つけました
ココに書かれていたことは
当家は代々 「樽屋善兵衛」と称し もとは油屋を営んでいた
「善兵衛」の名は 天保14年(1843年) 村方様子明細帳に
百姓代として載っている
住宅の建築年代は不明だが 18世紀後期の建築と考えられる
また 主屋の西方や西北方には 土蔵が所狭しと並んでいるが
その多くは油蔵であったと思われる
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浄土真宗 本願寺派 妙慶寺
日本の道100選顕彰碑 富田林寺内町 あてまげのみち
の次に訪れたのは
富田林市富田林町20-31にあります
浄土真宗 本願寺派 妙慶寺
こちらが本堂です
こちらにも案内板がありました
ココに書かれていたことは
当寺は 慶長8年(1603年)の創立で柳渓上人を開基とし
真宗本願寺一派に属する
本小津は東向きで阿弥陀仏を本尊とする
敷地の関係上 表門は北側に 裏門は南側に設けており
庫裡・太鼓楼・長屋が所狭しと敷地を囲んでいる
庫裡は近年大部分を新築改造されているが
他の建物は旧規を止めている
なお 本堂は 興正寺本堂 と規模・平面ともに類似しているが
その建立年代は 寺蔵の文書によって 享保5年(1720年)であることがわかる
宝物として 親鸞上人の真筆と称する 金泥十字尊号一幅
光明皇后筆と伝わる 金泥写経二葉を蔵する
次は寺内町 杉田家住宅 へ
の次に訪れたのは
富田林市富田林町20-31にあります
浄土真宗 本願寺派 妙慶寺
こちらが本堂です
こちらにも案内板がありました
ココに書かれていたことは
当寺は 慶長8年(1603年)の創立で柳渓上人を開基とし
真宗本願寺一派に属する
本小津は東向きで阿弥陀仏を本尊とする
敷地の関係上 表門は北側に 裏門は南側に設けており
庫裡・太鼓楼・長屋が所狭しと敷地を囲んでいる
庫裡は近年大部分を新築改造されているが
他の建物は旧規を止めている
なお 本堂は 興正寺本堂 と規模・平面ともに類似しているが
その建立年代は 寺蔵の文書によって 享保5年(1720年)であることがわかる
宝物として 親鸞上人の真筆と称する 金泥十字尊号一幅
光明皇后筆と伝わる 金泥写経二葉を蔵する
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