本町公園 石上露子記念碑
神田歯科医院前のお地蔵さん
の次に訪れたのは
富田林市本町8-15
にあります本町公園
そこで見つけました
石上露子記念碑
石上露子(1882-1959)
明治時代の後期に「明星」の歌人として活躍した石上露子は
本名を杉山タカといい富田林杉山家の長女に生まれた
幼少の頃から文筆に親しんだ露子は 17,8才の頃には
「夕ちどり」のペンネームで「婦女新聞」や「婦人世界」に随筆や小説を投稿し
1903年(明治36年)の秋には「新詩社」の社友となった
その端正な容姿から白菊の花にたとえられた露子は
与謝野晶子や山川登美子らとともに 「新詩社の5才媛」として称された
小板橋
ゆきずりのわが小板橋
しらしらとひと枝のうばら
いづこより流れか寄りし
君まつと踏みし夕に
いひしらず沁みて匂ひき
今はとて思ひ痛みて
君が名も夢も捨てむと
なげきつつ夕わたれば
ああうばら あともとどめず
小板橋ひとりゆらめく
ゆふちどり
とココには書かれてありました
次は本町公園 織田作之助記念碑 へ
の次に訪れたのは
富田林市本町8-15
にあります本町公園
そこで見つけました
石上露子記念碑
石上露子(1882-1959)
明治時代の後期に「明星」の歌人として活躍した石上露子は
本名を杉山タカといい富田林杉山家の長女に生まれた
幼少の頃から文筆に親しんだ露子は 17,8才の頃には
「夕ちどり」のペンネームで「婦女新聞」や「婦人世界」に随筆や小説を投稿し
1903年(明治36年)の秋には「新詩社」の社友となった
その端正な容姿から白菊の花にたとえられた露子は
与謝野晶子や山川登美子らとともに 「新詩社の5才媛」として称された
小板橋
ゆきずりのわが小板橋
しらしらとひと枝のうばら
いづこより流れか寄りし
君まつと踏みし夕に
いひしらず沁みて匂ひき
今はとて思ひ痛みて
君が名も夢も捨てむと
なげきつつ夕わたれば
ああうばら あともとどめず
小板橋ひとりゆらめく
ゆふちどり
とココには書かれてありました
次は本町公園 織田作之助記念碑 へ
神田歯科医院前のお地蔵さん
ちびっこ交通公園
の次に訪れたのは
富田林市本町14-14にあります 神田歯科医院
その前にありますお地蔵さん
中には2体のお地蔵さんがいらっしゃいました
近所のおばちゃんにお話を伺って
さらに先へ進みます
次は本町公園 石上露子記念碑 へ
富田林市本町14-14にあります 神田歯科医院
その前にありますお地蔵さん
中には2体のお地蔵さんがいらっしゃいました
近所のおばちゃんにお話を伺って
さらに先へ進みます
次は本町公園 石上露子記念碑 へ
ちびっこ交通公園
若松町緑地とお地蔵さん
の次に訪れたのは
ちびっこ交通公園
公園の中に道路や信号が再現されていて
こういうのは良いなぁ~と思ってみてました
子供さんもおおはしゃぎ
でも実際の道路と間違えないかがちと不安
次は神田歯科医院前のお地蔵さん へ
ちびっこ交通公園
公園の中に道路や信号が再現されていて
こういうのは良いなぁ~と思ってみてました
子供さんもおおはしゃぎ
でも実際の道路と間違えないかがちと不安
次は神田歯科医院前のお地蔵さん へ
寺内町 北口地蔵尊
寺内町 奥谷家住宅
の次に訪れたのは
北口地蔵尊
祠の中にはお地蔵さんがいらっしゃいます
でも 四角いものは初めて見ました
北口地蔵尊の脇にあったもの
左 ふじい寺 右 まきのお寺 とあったので
街道の道標かなぁ
地蔵尊のあたりに案内板がありました
ココにはこう書かれてありました
北口地蔵尊が祀られている場所は
西国三十三所観音霊場巡礼街道旧富田林村(寺内町)
の北入口の角にあたり古くから多くの人々の信仰を集め親しまれてきました
元は 道の南側にあり 西向きで祀られていましたが
車馬の通交が多くなるにつれ 現在の位置に移されました
東北隅にある道標に 「左ふじい寺 右 まきのお寺」 と書かれているのは
元々道の南側にあったものをそのままこちらへ移し替えられたため
実際の方向とは逆になっている訳です
地蔵尊の右側には 「安政7年戊戌天4月初2日 俗名巳ノ喜兵衛」と刻まれており
1778年4月に巳ノ喜兵衛という人によって造られたことが分かります
毎年8月23日に行われるお祭りには
夕方ともなれば200余りの献灯に明かりが灯り
昔は夜店もでる賑わいを見せていました
今ではそのような催しはなくなりましたが
夕闇がせまる頃から始まるご詠歌と鐘の音は
今も郷愁をさそう響きを残しています
次は若松町緑地とお地蔵さん へ
北口地蔵尊
祠の中にはお地蔵さんがいらっしゃいます
でも 四角いものは初めて見ました
北口地蔵尊の脇にあったもの
左 ふじい寺 右 まきのお寺 とあったので
街道の道標かなぁ
地蔵尊のあたりに案内板がありました
ココにはこう書かれてありました
北口地蔵尊が祀られている場所は
西国三十三所観音霊場巡礼街道旧富田林村(寺内町)
の北入口の角にあたり古くから多くの人々の信仰を集め親しまれてきました
元は 道の南側にあり 西向きで祀られていましたが
車馬の通交が多くなるにつれ 現在の位置に移されました
東北隅にある道標に 「左ふじい寺 右 まきのお寺」 と書かれているのは
元々道の南側にあったものをそのままこちらへ移し替えられたため
実際の方向とは逆になっている訳です
地蔵尊の右側には 「安政7年戊戌天4月初2日 俗名巳ノ喜兵衛」と刻まれており
1778年4月に巳ノ喜兵衛という人によって造られたことが分かります
毎年8月23日に行われるお祭りには
夕方ともなれば200余りの献灯に明かりが灯り
昔は夜店もでる賑わいを見せていました
今ではそのような催しはなくなりましたが
夕闇がせまる頃から始まるご詠歌と鐘の音は
今も郷愁をさそう響きを残しています
次は若松町緑地とお地蔵さん へ
寺内町 奥谷家住宅
寺内町 東奥谷家住宅
の次に訪れたのは
奥谷家住宅
町屋の道路に接する面に寄せて設けた牛馬を繋ぐための柵
駒寄せというそうです
こちらでも案内板を見つけました
ココに書いてあったことは
当家は代々屋号を「岩瀬屋」と称し 河内長野市の岩瀬から
18世紀頃 この地に移住したと伝えられる
家業は材木商を営み 天保14年(1843年)の村方様子明細帳には
3代目「伊右衛門」 の名がみられ村役を務めていたと考えられる
また 当家には この3代目夫婦の肖像画が残っており
大変貴重なものである
敷地の東南端に主屋を東西棟に配し
敷地の周囲には 土蔵・納屋・新座敷を配すなど
近世末の豪壮な構えをよく留めている
次は寺内町 北口地蔵尊 へ
奥谷家住宅
町屋の道路に接する面に寄せて設けた牛馬を繋ぐための柵
駒寄せというそうです
こちらでも案内板を見つけました
ココに書いてあったことは
当家は代々屋号を「岩瀬屋」と称し 河内長野市の岩瀬から
18世紀頃 この地に移住したと伝えられる
家業は材木商を営み 天保14年(1843年)の村方様子明細帳には
3代目「伊右衛門」 の名がみられ村役を務めていたと考えられる
また 当家には この3代目夫婦の肖像画が残っており
大変貴重なものである
敷地の東南端に主屋を東西棟に配し
敷地の周囲には 土蔵・納屋・新座敷を配すなど
近世末の豪壮な構えをよく留めている
次は寺内町 北口地蔵尊 へ
龍馬伝 #02 大器晩成?
龍馬伝 #01 上士と下士
に引き続き第2話
人のココロを動かすもまた人である
ということが分かったように思います
いつの時代も子供は可愛いものなのですね
次は龍馬伝 #03 偽手形の旅 へ
ドラマ感想一覧
NHK大河ドラマ 龍馬伝
に引き続き第2話
人のココロを動かすもまた人である
ということが分かったように思います
いつの時代も子供は可愛いものなのですね
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ドラマ感想一覧
NHK大河ドラマ 龍馬伝
寺内町 越井家住宅
寺内町 佐藤家住宅
の次に訪れたのは
越井家住宅
長大な米蔵
黒漆喰もまた良いですね
こちらでも案内板を発見!
ココに書かれていたことは
当家は代々 「平尾屋庄兵衛」を名乗り
その先祖が平尾村(現美原町)から当地に移住したと伝えられる
材木商を営み 安政年間(1854~1860年)には庄屋を務めた家柄である
主屋は明治末期の建築で 当家の材木置場跡に建てられてたものである
敷地は当寺内町の北東にあたる1ブロックの大部分を占め
北側に長大な米蔵を配し この辺りの景観を引き立たせている
次は寺内町 東奥谷家住宅 へ
越井家住宅
長大な米蔵
黒漆喰もまた良いですね
こちらでも案内板を発見!
ココに書かれていたことは
当家は代々 「平尾屋庄兵衛」を名乗り
その先祖が平尾村(現美原町)から当地に移住したと伝えられる
材木商を営み 安政年間(1854~1860年)には庄屋を務めた家柄である
主屋は明治末期の建築で 当家の材木置場跡に建てられてたものである
敷地は当寺内町の北東にあたる1ブロックの大部分を占め
北側に長大な米蔵を配し この辺りの景観を引き立たせている
次は寺内町 東奥谷家住宅 へ






