□ 久宝寺御坊 顕証寺
5565t安井 道頓 道ト 出生地碑
の次に訪れたのは
八尾市久宝寺4-4-3
にあります
浄土真宗本願寺派 顕証寺
久宝寺御坊 とも呼ばれるそうです
築地塀
この線のようなものは
格式を表すそうです
表門
本堂です
大きいですね~
資料にはこう書かれてありました
真宗 西本願寺の別院で
連技の格式をもつ寺
文明2年(1470年) 蓮如上人布教の後
”帰する者 市の如し” と帰信者多く
ここに一寺を建てて 西証寺と号し 子 実順を往持としたが
後をついだ その子 実真が早世したので
近江大津の顕証寺 蓮淳を迎えて往持とした
蓮淳入寺して 顕証寺 と改め
河内12坊の総支配をつとめ
四町四方を画して 寺内町をつくり
土豪 安井氏にその寺内の支配をゆだねた
次は顕証寺 蓮如上人像 へ
の次に訪れたのは
八尾市久宝寺4-4-3
にあります
浄土真宗本願寺派 顕証寺
久宝寺御坊 とも呼ばれるそうです
築地塀
この線のようなものは
格式を表すそうです
表門
本堂です
大きいですね~
資料にはこう書かれてありました
真宗 西本願寺の別院で
連技の格式をもつ寺
文明2年(1470年) 蓮如上人布教の後
”帰する者 市の如し” と帰信者多く
ここに一寺を建てて 西証寺と号し 子 実順を往持としたが
後をついだ その子 実真が早世したので
近江大津の顕証寺 蓮淳を迎えて往持とした
蓮淳入寺して 顕証寺 と改め
河内12坊の総支配をつとめ
四町四方を画して 寺内町をつくり
土豪 安井氏にその寺内の支配をゆだねた
次は顕証寺 蓮如上人像 へ
□ 安井 道頓 道ト 出生地碑
今口樋之上地蔵尊
の次に訪れたのは
八尾市久宝寺3-3-20
にあります
寺内町ふれあい館
打ちっぱなしの建物です
中に 安井 道頓 道ト 出生地碑がありました
説明板にはこう書かれてありました
大正3年 (1914年)
大正天皇が大阪にお越しなった際
大阪の地にゆかりのある
功臣・先賢に対する贈位が発令され
道頓堀開削に功績のあった
久宝寺の安井 道頓・道トに従五位が贈られました
この碑は 贈位を記念して建立され
市内の安井氏傍系の家の庭にあったものを移設したものです
安井氏は 久宝寺の土豪で17世紀初め 私財を投じ
久宝寺等の人々とともに道頓堀の開削に着手したと言われています
後の大坂 夏の陣で 道頓は豊臣方について戦死しましたが
安井 九兵衛や 平野 藤次らがその遺志を継いで
道頓堀の工事を完成させました
最近の学説では 道頓は安井氏ではなく
平野の成安氏であると言われていますが
古くから伝えられている 安井 道頓説の方がなじみが深く
小説の題材にもなっています
こちらで昼食
甘いものも一緒に頂きました
次は久宝寺御坊 顕証寺 へ
の次に訪れたのは
八尾市久宝寺3-3-20
にあります
寺内町ふれあい館
打ちっぱなしの建物です
中に 安井 道頓 道ト 出生地碑がありました
説明板にはこう書かれてありました
大正3年 (1914年)
大正天皇が大阪にお越しなった際
大阪の地にゆかりのある
功臣・先賢に対する贈位が発令され
道頓堀開削に功績のあった
久宝寺の安井 道頓・道トに従五位が贈られました
この碑は 贈位を記念して建立され
市内の安井氏傍系の家の庭にあったものを移設したものです
安井氏は 久宝寺の土豪で17世紀初め 私財を投じ
久宝寺等の人々とともに道頓堀の開削に着手したと言われています
後の大坂 夏の陣で 道頓は豊臣方について戦死しましたが
安井 九兵衛や 平野 藤次らがその遺志を継いで
道頓堀の工事を完成させました
最近の学説では 道頓は安井氏ではなく
平野の成安氏であると言われていますが
古くから伝えられている 安井 道頓説の方がなじみが深く
小説の題材にもなっています
こちらで昼食
甘いものも一緒に頂きました
次は久宝寺御坊 顕証寺 へ
□ 今口樋之上地蔵尊
長曽我部物見松遺址
に引き続き
八尾市久宝寺3-12
あたりにあります
今口樋之上地蔵尊

今口樋之上地蔵尊 と書かれてますね

左が 弘法大師
右が 樋之上地蔵尊

資料によるとこう書かれてありました
今口にあるので 今口地蔵堂という
今口地蔵は花崗岩製
像高60cmの半肉彫りの地像立像
高さ 23cm 幅 32cm の正方形の台に乗る
次は安井 道頓 道ト 出生地碑へ
に引き続き
八尾市久宝寺3-12
あたりにあります
今口樋之上地蔵尊

今口樋之上地蔵尊 と書かれてますね

左が 弘法大師
右が 樋之上地蔵尊

資料によるとこう書かれてありました
今口にあるので 今口地蔵堂という
今口地蔵は花崗岩製
像高60cmの半肉彫りの地像立像
高さ 23cm 幅 32cm の正方形の台に乗る
次は安井 道頓 道ト 出生地碑へ
□ 2010.8/3 阪神×巨人
2010年8月1日(日) 阪神 vs 中日 第15回戦
に引き続き
2010年8月3日(火) 阪神 vs 巨人 第14回戦
in東京ドーム
≪試合結果≫
● 2 - 6
巨人が今季4度目の4連勝
T戦3連勝で貯金16
首位に浮上しCSマジック39
4回小笠原の2試合連続22号ソロで先制
3-1の8回阿部の自身最多タイ32号3ランで加点した
なおこの阿部のHRで脇谷が球団記録の13試合連続得点
2人目野間口が4回無失点で2年ぶりの勝利
T戦プロ初
東京Dでは3年ぶりの白星
阪神は球団記録を更新する巨人戦8試合連続2桁安打も
連勝が4で止まり貯金15
CSマジック41
先発のスタンリッジが5回3失点で自身の連勝が6で止まり7敗目
セリーグ相手に来日初黒星
次は2010年8月4日(水) 阪神 vs 巨人 第15回戦 へ
に引き続き
2010年8月3日(火) 阪神 vs 巨人 第14回戦
in東京ドーム
≪試合結果≫
● 2 - 6
巨人が今季4度目の4連勝
T戦3連勝で貯金16
首位に浮上しCSマジック39
4回小笠原の2試合連続22号ソロで先制
3-1の8回阿部の自身最多タイ32号3ランで加点した
なおこの阿部のHRで脇谷が球団記録の13試合連続得点
2人目野間口が4回無失点で2年ぶりの勝利
T戦プロ初
東京Dでは3年ぶりの白星
阪神は球団記録を更新する巨人戦8試合連続2桁安打も
連勝が4で止まり貯金15
CSマジック41
先発のスタンリッジが5回3失点で自身の連勝が6で止まり7敗目
セリーグ相手に来日初黒星
次は2010年8月4日(水) 阪神 vs 巨人 第15回戦 へ
□ 【募集】花火の後はイターリ屋
2010年8月7日(土)
なにわ淀川花火大会
が開催されます
十三や塚本へ見に行かれている方も
いらっしゃると思いますが
僕は人の御好意により福島のとある屋上から
見ている事でしょう!
まぁ それは よしとして・・・・
その後 余韻も冷めやらぬ中
イタリアンで呑みませんか?
というお誘いです
【募集用件】
①teitter をされている方(できれば)
②ブログを書かれている方(できれば)
③福島区鷺洲まで来れる方
です
場所は タヴェルナ・イターリ屋 さん
時間は 21時ぐらいから・・・
予約も特にとりません
コメントして頂けれ嬉しいです
なにわ淀川花火大会
が開催されます
十三や塚本へ見に行かれている方も
いらっしゃると思いますが
僕は人の御好意により福島のとある屋上から
見ている事でしょう!
まぁ それは よしとして・・・・
その後 余韻も冷めやらぬ中
イタリアンで呑みませんか?
というお誘いです
【募集用件】
①teitter をされている方(できれば)
②ブログを書かれている方(できれば)
③福島区鷺洲まで来れる方
です
場所は タヴェルナ・イターリ屋 さん
時間は 21時ぐらいから・・・
予約も特にとりません
コメントして頂けれ嬉しいです
□ 慶春五輪塔
八尾浜と久宝寺船着場
の次に訪れたのは
八尾市久宝寺3-12
あたりにあります
慶春五輪塔
案内板にはこう書かれてありました
昭和27年6月
大阪ー八尾線道路改修のさい
宇樋上から出土したものである
この地は久宝寺寺内町の
今口門のあったところである
材質は花崗岩で
五輪塔の高さ65cm
地輪正面には
明応2年 葵丑
慶春禅門
4月22日
と刻まれており
その年号から推して
正覚寺合戦のさいの
戦死者の墓ではなかろうか
大阪夏の陣のさい
激戦のあったところで
東軍は東口とこの
今口両道から久宝寺に攻め入った
次は長曽我部物見松遺址 へ
の次に訪れたのは
八尾市久宝寺3-12
あたりにあります
慶春五輪塔
案内板にはこう書かれてありました
昭和27年6月
大阪ー八尾線道路改修のさい
宇樋上から出土したものである
この地は久宝寺寺内町の
今口門のあったところである
材質は花崗岩で
五輪塔の高さ65cm
地輪正面には
明応2年 葵丑
慶春禅門
4月22日
と刻まれており
その年号から推して
正覚寺合戦のさいの
戦死者の墓ではなかろうか
大阪夏の陣のさい
激戦のあったところで
東軍は東口とこの
今口両道から久宝寺に攻め入った
次は長曽我部物見松遺址 へ
□ 八尾浜と久宝寺船着場
慈願寺
の次に訪れたのは
国道2号線と長瀬川のあたり
久宝寺寺内町へ と書かれた矢印を発見
資料にはこう書かれてありました
長瀬川は もと大和川の本流で
古くはおよそ200mの川幅があり
川舟が往復した
宝永元年(1704年)の川違え後は
井路川となり 剣先船が 人や米
木材などを大阪から運んできた
年貢米の運送や 大阪・淀などへの往復に大いに利用された
八尾の方は八尾浜 久宝寺側を船着場と云い
共に祭礼の時の御旅所で 古く川渡御もここで行われた
また ここには古くは土橋が架かっていた
この橋の西際に高さ 153mの大きな道標が建つ
信貴山 柏原国分 大坂道 玉造道 の表示があり
交通の要所であったことを示している
次は 慶春五輪塔 へ
の次に訪れたのは
国道2号線と長瀬川のあたり
久宝寺寺内町へ と書かれた矢印を発見
資料にはこう書かれてありました
長瀬川は もと大和川の本流で
古くはおよそ200mの川幅があり
川舟が往復した
宝永元年(1704年)の川違え後は
井路川となり 剣先船が 人や米
木材などを大阪から運んできた
年貢米の運送や 大阪・淀などへの往復に大いに利用された
八尾の方は八尾浜 久宝寺側を船着場と云い
共に祭礼の時の御旅所で 古く川渡御もここで行われた
また ここには古くは土橋が架かっていた
この橋の西際に高さ 153mの大きな道標が建つ
信貴山 柏原国分 大坂道 玉造道 の表示があり
交通の要所であったことを示している
次は 慶春五輪塔 へ
□ 慈願寺
河内県庁跡碑
の次に訪れたのは
八尾市本町3-5-5
にあります
浄土真宗 本願寺派 慈願寺
山門です
信願房開基の碑があります
文化庁指定 国の登録有形文化財指定
第27-0342~0348号に登録されています~
本堂です
案内板にはこう書かれてありました
福井山と号し 真宗東本願寺末
開祖は親鸞聖人直弟 24輩のうち
第13番 信願房法心 (俗名 那須肥前守資村)といい
聖人の関東布教のさい 帰依した
法心は下野国に慈願寺を建てたが
後京都に上り 弘安3年(1280年)遺名により
久宝寺村へ来り 慈願寺を建て
文明2年(1470年) 蓮如上人 久宝寺布教のさいは
久宝寺に顕証寺が設けられ 東大阪の真宗弘布の中心となった
慶長11年(1606年) 東本願寺につき
森本 行誓ら17人衆と八尾に移り
院家として八尾御坊 大信寺 の役寺となった
親鸞聖人絵伝など寺宝が多い
次は八尾浜と久宝寺船着場 へ
の次に訪れたのは
八尾市本町3-5-5
にあります
浄土真宗 本願寺派 慈願寺
山門です
信願房開基の碑があります
文化庁指定 国の登録有形文化財指定
第27-0342~0348号に登録されています~
本堂です
案内板にはこう書かれてありました
福井山と号し 真宗東本願寺末
開祖は親鸞聖人直弟 24輩のうち
第13番 信願房法心 (俗名 那須肥前守資村)といい
聖人の関東布教のさい 帰依した
法心は下野国に慈願寺を建てたが
後京都に上り 弘安3年(1280年)遺名により
久宝寺村へ来り 慈願寺を建て
文明2年(1470年) 蓮如上人 久宝寺布教のさいは
久宝寺に顕証寺が設けられ 東大阪の真宗弘布の中心となった
慶長11年(1606年) 東本願寺につき
森本 行誓ら17人衆と八尾に移り
院家として八尾御坊 大信寺 の役寺となった
親鸞聖人絵伝など寺宝が多い
次は八尾浜と久宝寺船着場 へ


