8月12日に投稿したなう
さすが お盆 何処もあいてない~ ただいま 中海老江の交差点 福島に向けて走行中~
8/12 12:24
転職しようかな(笑) matsu77さんは本当は『インフォメーションアーキテクト』が向いています!その場合の年収は、1565万円です。 http://shindanmaker.com/32921 #webcreatter
8/12 15:24
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□ 樟本神社(木の本)
日羅寺
の次に訪れたのは
八尾市木の本1-59
にあります
樟本神社(木の本)
鳥居を通り
社殿へ
案内板にはこう書かれてありました
当社は式内社である
延喜式に記載されている樟本神社3座の1にして
他の2座は南木の本 ・北木の本 に分祀されている
創建の年代は詳かではないが
用明天皇の御代(約1400年前)
物部守屋公が本據地である稲村城 (現 光蓮寺敷地)
の守護神として崇めていた 布都大神 を
奉祀されたものと伝えられる
紀・記古伝によると 悪疫邪霊を祓い
病気平癒 又 鍬靫を司る農耕・武の神として
広く村民の崇敬を受け現在に至っている
樟本神社の社名は往古境内に樟の巨木が
茂っていたところからと謂われている
次は戎神社(木の本) へ
の次に訪れたのは
八尾市木の本1-59
にあります
樟本神社(木の本)
鳥居を通り
社殿へ
案内板にはこう書かれてありました
当社は式内社である
延喜式に記載されている樟本神社3座の1にして
他の2座は南木の本 ・北木の本 に分祀されている
創建の年代は詳かではないが
用明天皇の御代(約1400年前)
物部守屋公が本據地である稲村城 (現 光蓮寺敷地)
の守護神として崇めていた 布都大神 を
奉祀されたものと伝えられる
紀・記古伝によると 悪疫邪霊を祓い
病気平癒 又 鍬靫を司る農耕・武の神として
広く村民の崇敬を受け現在に至っている
樟本神社の社名は往古境内に樟の巨木が
茂っていたところからと謂われている
次は戎神社(木の本) へ
□ 日羅寺
引き続き
八尾市南木の本7-33
にあります
樟本神社(南木の本)
次は 日羅寺
こちらでも案内板を見つけました
高樹山 日羅禅寺
ここ 日羅寺は 物部守屋が籠った稲城の跡に建てられました
名の由来は 「日羅上人」 とも 「日羅将軍」 とも言われる
百済生まれの倭人で 大伴金村大連に随伴して百済に渡った
火葦北国造阿利斯登の子です
後に百済の都城の治安守備にあたる将軍となり
文武両道に秀で信仰厚く仏教への造詣の深い人物です
西暦583年 敏達天皇勅命により帰国した日羅の為に
この地(阿斗)にわが国 最古の寺院の1つとして日羅寺は建立されました
同じく日羅開基寺院は鹿児島の鳥羽上皇 御命名 一乗寺(末寺65ヶ寺)
を始め 全国に百数十ヶ寺あり
奈良県の橘寺には
国の重要文化財 木造 日羅立像にそのお姿を見ることができます
明治の廃仏毀釈の中
樟本神社分社を境内にお迎えすることで残されました
また 熊本県には 「日羅神社」 もあり 将軍祭りは今も盛大に営まれ
日羅寺同様 村人の厚い信仰を集めています
聖徳太子は病に苦しむ 善男善女の病平癒を願い
四天王寺に病気治癒所・薬草園をお造りになり
自らは薬師如来立像を彫られ
ここ 日羅寺本堂に安置されたとの伝承があります
次は樟本神社(木の本) へ
八尾市南木の本7-33
にあります
樟本神社(南木の本)
次は 日羅寺
こちらでも案内板を見つけました
高樹山 日羅禅寺
ここ 日羅寺は 物部守屋が籠った稲城の跡に建てられました
名の由来は 「日羅上人」 とも 「日羅将軍」 とも言われる
百済生まれの倭人で 大伴金村大連に随伴して百済に渡った
火葦北国造阿利斯登の子です
後に百済の都城の治安守備にあたる将軍となり
文武両道に秀で信仰厚く仏教への造詣の深い人物です
西暦583年 敏達天皇勅命により帰国した日羅の為に
この地(阿斗)にわが国 最古の寺院の1つとして日羅寺は建立されました
同じく日羅開基寺院は鹿児島の鳥羽上皇 御命名 一乗寺(末寺65ヶ寺)
を始め 全国に百数十ヶ寺あり
奈良県の橘寺には
国の重要文化財 木造 日羅立像にそのお姿を見ることができます
明治の廃仏毀釈の中
樟本神社分社を境内にお迎えすることで残されました
また 熊本県には 「日羅神社」 もあり 将軍祭りは今も盛大に営まれ
日羅寺同様 村人の厚い信仰を集めています
聖徳太子は病に苦しむ 善男善女の病平癒を願い
四天王寺に病気治癒所・薬草園をお造りになり
自らは薬師如来立像を彫られ
ここ 日羅寺本堂に安置されたとの伝承があります
次は樟本神社(木の本) へ
□ 樟本神社(南木の本)
柏原船
の次に訪れたのは
八尾市南木の本7-33
にあります
樟本神社(南木の本)
鳥居を通り
社殿
案内板にはこう書かれてありました
この地は 物部氏の住地であった
この社はその祖神をまつったものである
北木本 と木本 に同名の2社があり
延喜式神名帳には 樟本神社3座と記されている
守屋が聖徳太子の軍を防ぐため
このあたりに「稲城 」を設けたとき
城中に榎木があったので
これを 「榎木城」 といい
村の名も 「榎木村」 といったが
のち 「木本」 となったと伝える
境内には 黄檗宗 日羅寺 がある
薬師如来を本尊とする
日羅は百済へ渡り重く用いられた
敏達天皇は任那滅亡後 日羅を呼びもどし
百済の政情をたずねたところ
「兵事よりも 百姓保護に努め
国力を充実して 百済を討つべし」 と説いた
このため同行して 来朝していた
百済使臣のために暗殺された
厨子は 延宝8年(1680年) 平野の豪族
末吉勘兵衛利長の寄進によるという
次は 日羅寺 へ
の次に訪れたのは
八尾市南木の本7-33
にあります
樟本神社(南木の本)
鳥居を通り
社殿
案内板にはこう書かれてありました
この地は 物部氏の住地であった
この社はその祖神をまつったものである
北木本 と木本 に同名の2社があり
延喜式神名帳には 樟本神社3座と記されている
守屋が聖徳太子の軍を防ぐため
このあたりに「稲城 」を設けたとき
城中に榎木があったので
これを 「榎木城」 といい
村の名も 「榎木村」 といったが
のち 「木本」 となったと伝える
境内には 黄檗宗 日羅寺 がある
薬師如来を本尊とする
日羅は百済へ渡り重く用いられた
敏達天皇は任那滅亡後 日羅を呼びもどし
百済の政情をたずねたところ
「兵事よりも 百姓保護に努め
国力を充実して 百済を討つべし」 と説いた
このため同行して 来朝していた
百済使臣のために暗殺された
厨子は 延宝8年(1680年) 平野の豪族
末吉勘兵衛利長の寄進によるという
次は 日羅寺 へ
□ 柏原船
平野川の使い場
の次に訪れたのは
隣にあります
柏原船
横から見た様子
上から見た様子
案内板にはこう書かれてありました
柏原船は平野川を運行する川船で
大坂・京橋から柏原までを往来した
長さ約19m・幅2m・深さ0.42mの浅川船で
積載量は20石積(1石=180リットル)であった
元和6年(1620年) の洪水で被害を受けた
志紀郡の復興策の一環として
当時の代官 末吉氏が計画したといわれ
柏原村の庄屋などが請負い
船持ちとなって運行されるようになった
しかし 大坂市中への直接乗り入れは
市中の川船との関係で許可されず
京橋で荷物を積み替えなければならなかった
次は 樟本神社(南木の本) へ
の次に訪れたのは
隣にあります
柏原船
横から見た様子
上から見た様子
案内板にはこう書かれてありました
柏原船は平野川を運行する川船で
大坂・京橋から柏原までを往来した
長さ約19m・幅2m・深さ0.42mの浅川船で
積載量は20石積(1石=180リットル)であった
元和6年(1620年) の洪水で被害を受けた
志紀郡の復興策の一環として
当時の代官 末吉氏が計画したといわれ
柏原村の庄屋などが請負い
船持ちとなって運行されるようになった
しかし 大坂市中への直接乗り入れは
市中の川船との関係で許可されず
京橋で荷物を積み替えなければならなかった
次は 樟本神社(南木の本) へ











