沈黙の知性
ということで、大した話しではないが、最近タクシーに乗った時のことだが、座っていた後部座席の前にモニターが掛かっていて、何かの宣伝なのか何かよくわからない映像が流れていた。それで何気なくぼんやりと見ていると、女性タレントのメグミさんによく似ている若い女性(本人かも知れない)が、小さなリスか何かの小動物の縫いぐるみと会話をしていて、その会話の内容が興味深かったのでここでお話しすることにする。何についての会話だったのかと言えば、知性とは何なのかということについてである。メグミさん似の女性(或いは当人)は、小動物に対して何と「知性とは黙ることだ」と喝破したのである。黙ることの意味は「何かあった時に、わーわー言うのではなくて、黙って冷静に状況を把握して、どうすればその問題が収束に向かうかを見極めることだ」と確かそのような意味合いのことを言っていたので、私はこの女性は凄いことを言うなあと感心してしまったのであった。それでこれは一体何の宣伝やねんと思っていたところ、タクシーは自宅についてしまってわからずじまいになってしまった。
知性とは、わーわー騒ぎ立てることではなく、その対極の沈黙の中にこそ存在する。この警句の持つ意義は、我々現代人の日常生活を維持する上で非常に貴重だと思われるし、また若い女性が述べていることが、私には大変好感を感じたのである。人生や生活に生じる諸問題の困難さは、もちろん貧困であるとか病気や家庭環境など簡単に解決できないこともあるであろうが、大半は大したことではないこと、つまらない、どうでもいいような個人的な自分のプライドや面子、体面を守るために意固地になって感情的にわーわー騒ぎ立てることから発生する処分不可のゴミ芥のような類のものだとも言えるからである。人はなぜ、わーわー言うのであろうか。巨人の阿部監督が18歳の長女への暴行で逮捕され辞任した。思うに日頃から日常的に或いは散発的にでも暴力行為があったのなら今回の経緯は必然的な流れであると思われる。しかし一時的な父親への反発の感情で児童相談所に通報して、児童相談所も状況の程度がよくわからないまま、たとえば通報時の泣き声や興奮した声の様子から緊急性を感じて警察に110番したのであれば、それでこのような大事になったのであれば、やはり社会の何かが間違っているような気がする。別に阿部監督の長女を責めている訳ではない。18歳ということであれば微妙な年齢でもある。でももし長女が今になってえらいことになってしまった、こんなことになるとは思っていなかったと後悔する気持ちがあるのであれば、やはり今回の事態は日常的な刷り込みが招いた悲劇だと言えるのではなかろうか。悲劇という言葉が適切かどうかはわからないが、父親が職を失ったのであるからそれなりに不幸な出来事ではあろう。暴力を許せないという気持ちは理解できるものではある。しかしそれをAIのチャットGPTに相談するのはまだしも、児童相談所に通報するかどうかは別の冷静な判断能力が必要とされるものである。わーわー言うだけではダメなのである。私はその刷り込みにはマスコミの悪影響が大きいと考えている。特にオールドメディアの論調だ。わーわー言うのが絶対的に間違っているとか、悪だというつもりはない。長年いじめを受け続けて、抵抗や抗議が出来ないままに我慢し続けて、限界になって自殺する子供たちがいる。京都府南丹市の事件のように11歳の男の子が継父に殺されるような悲惨なケースが後を絶たない。そういうような境遇の子供たちや人々が、本当はわーわー言わなければならないのだし、また救ってあげなければならない対象であるはずである。しかし現実にはそのような社会構造にはなっていない。なぜなのであろうか。世の中には自分の当然の権利として、わーわー言うのが日課であるとか、言わなければ損だと考えるような精神性の人々がたくさん存在する。その源は、TVなどで大上段に誰かに対してわーわー言うのを生業としているような識者なりタレントのような品性の劣る人間が、日常的にこの我々の社会を、皮相的で欺瞞的な正義や倫理観によって穢し続けてきていることにあるように私には感じられる。はっきり言ってTVやオールドメディアの本質とは、まあそれぞれのメディアに差異があるので一概には言えないことであるが、基本的にはそういうことで成り立っている商売なのである。もっとわかりやすい言葉で言えば、卑しいのである。この卑しさの社会構造に悪影響を受けた子供たちが、本当は誰よりも金銭的にも愛情にも恵まれた家庭環境で育てられているにも関わらず些細な折檻程度のことで警察や児童相談所に自分の親を訴えて、一方で本当に保護されなければならない境遇の子供たちの声なき声が埋もれてしまっている。それで京都府南丹市のような事件がいざ発覚するとオールドメディアは、獲物を貪るようにわーわー論評し続けるのであるが、社会の本質は何一つとして変わり得ないという現状がある。声高にわーわー言い続けているような元気のある人々は弱者ではない。言えないような子供や本当の弱者に目を向けてあげられる社会にしていかなければならない。日本のオールドメディアに対して「知性とは黙ることだ」などと言っても馬の耳に念仏であろう。彼らの仕事は、ひたすらわーわー言い続けること、そしてそれに同調してくれる大衆を増やしていくところにあるからだ。その一方で辺野古ボート転覆事故のように、左翼の言論にとって都合の悪いことに関しては見事なまでに沈黙を保ち続ける。本当に卑劣でたちが悪いとしか言いようがない。この異様な祭りのようなわーわーと完膚なきまでの沈黙の対比こそが、日本という国家の特異な精神構造であると言えるのではなかろうか。
(吉川 玲)