何で今、選挙なのか。
ということで、今、何で選挙なのかと批判するのも民主主義的な形式に沿った一つの主張なのかも知れないが、そもそもの事の発端は、何なのかということだ。大衆は忘れっぽいので、もう記憶が薄らいできている人もいるのであろうが、11月7日の衆院予算員会にて立憲民主党の岡田克也氏が高市早苗首相に対して、台湾有事における存立危機事態認定の具体的な要件について執拗に問いただし、それが元で中国政府の日本に対する過激な内政干渉や嫌がらせが相次いだ。今から僅か3か月前のことである。旧立憲民主党や岡田氏は認めないであろうが、誰が考えてもその一連のイベントは、日本にとって極めて重要な政策実施を行おうとする高市政権の姿勢を否定し、引きずり降ろすためのシナリオから発生したものであった。よって高市首相にとっては、岡田氏の質問に答えたもので、自らが積極的に主張したものではないのであるが、これほどまでに、日本に混乱と騒動を自身の発言で引き起こしたことは事実なのであるから、一つのけじめとして自身が日本の政治トップとして相応しいのかどうかを国民に問うことは政治の流れとしては当然である。つまり衆院解散選挙を実施せざるを得ない状況を作ったのは、なりふり構わず高市政権潰しに邁進した岡田克也氏と旧立憲民主党なのである。それが、自分たちで仕向けたことであるのに、いざ選挙となると旧立憲民主党はパニック状態に陥り、あたふたと悪あがきをして公明党の傘下に陥り、それだけではなく、日本に中国との対立機運を顕在化させたそもそもの原因である安全保障上の安保関連法についての解釈を変節させてしまったものである。いやいや、その主張を変更させてしまっては、選挙の実施も何も、中国の内政干渉も全ての出来事は、旧立憲民主党や岡田克也氏の一貫性のない倒錯した一人芝居で、日本全体が結果的に振り回されてしまっているということになるではないか。政治というものは、日本は専制政治ではなく一応は民主政治ということになっているのだから、そこまでの暴挙や整合性の無さというものが許容されるべきなのであろうか。岡田氏や旧立憲民主党は自民党を批判するよりもまずその点に対して国民に対してきちんと説明すべき責任があるのではないのか。何で最近は岡田克也氏がマスコミの表舞台に出てこなくなったのか。台湾有事に関して言えば、自国が直接、攻撃されていないにも関わらず、米国などの密接な関係にある外国を実力で守る集団的自衛権は、自衛のための最小限の範囲を超えているゆえに憲法違反であり、違憲だということが従来の立憲民主党の立場であった。その集団的自衛権の行使容認が、日本の存立危機事態における武力行使の要件拡大になるとの懸念から、岡田克也氏の高市首相に対する追求があって、それに呼応するかのように中国の日本に対する過激な反応が呼び起され、その流れで今、選挙を迎えているのである。その元々の発端となる事柄に対して、安保関連法が今更、合憲だ、違憲部分はないなどと言うのであれば、何で今、選挙なのかなどと泣き言を言う以前に、そういう政治的な道理も節操も完膚なきまでに一切ない、何でもありの旧立憲民主党のような集団が、日本の諸悪の根源であり、大本であることを先ず認めて、謝罪すべきことが、選挙に臨む筋道ではないのかと言わざるを得ない。こういうような旧立憲民主党の低劣な連中を見ていると、昔、子供のころに読んだある童話を思い出す。蛇が空腹のあまり、自分の尻尾の先を加えて食べ始めたのである。そして頭と尻尾の先が繋がった輪は、次第に小さくなっていって、ついには消えてしまったのである。今まで確かに存在していたはずの蛇は一体どこに消えてしまったのか。さあ岡田氏を初め、旧立憲民主党の皆さん、蛇の如き何でも飲み込むその貪欲な頭でよく考えてみてください。爬虫類相手には何を言っても無駄なのであろうが。
(吉川 玲)