離婚後の生活 5/6
さて、ここまで読んでいただいて、偉そうに設問を出すのは気が引けるのであるがお許しいただきたい。TVを買ったときの店頭での店員の説明とその後の電話で最初に出てきた女性(どちらも長期保証を断っていた店員)と電話で後から登場した男性(あっさりと長期保証を認めた店員)の対応の違いの背景にはどのような事情が考えられるであろうか。すぐにはわからないであろうから読み返して考えていただきたい。
正解は(私が勝手に正解だと思っているだけのことであるが)、こういうことである。ミドリ電化は信販会社と提携しているが、その仕組みは家電品の販売とカードの普及をタイアップさせることで長期保証のサービスを創出するシステムを構築しているのである。その原理原則がわかれば自ずと見えてくるものがあるはずだ。ミドリ電化は信販会社と提携しているもののビジネス上において完全に一心同体というわけではなく、微妙に利害条件が異なるのである。信販会社は1枚でも多くのカードを発行して新規顧客を増やすことに一義的な目的がある。そして信販会社と提携しているその他、飲食店やホテルで使ってもらったり、公共料金の引き落としやキャッシングを利用させることによって利益が発生することになる。よって信販会社にとってはミドリ電化で販売される家電品が、誰の金で買われて、誰の所有物であるのかなどはどうでもよいことなのである。また信販会社には、離婚した元妻のように新規でカードを作ることの出来ないような人間はビジネス上何の値打ちもないのであって、長期保証のサービスを供与するわけにはいかないという理屈となるのだ。おわかりであろうか。ところがミドリ電化は信販会社と切り離して単独で考えた場合に事情が変わってくる。量販店にとっては本来、わざわざ足を運んで来店してくれて、自分の金を自分の店に落としてくれる客を大切にしなければならないのは当然だからだ。すなわち店頭で、配達場所がカード登録の住所と違うから長期保証の対象に出来ないと説明した店員や、電話で最初に応対した女性店員は、おそらくそのように教育、指導されていたからであろうが、主に信販会社の立場と利益に則って説明していたのである。資本主義の原理に忠実な規則に(恐らくはその意図もよくわからないまま)従っていたとも言える。ところが電話で女性店員に交代して登場した男性店員は視野が効く人間だったので瞬時の判断で私の購入履歴を見て、資本主義の原理主義からミドリ電化本体が取るべき方向性へと柔軟に考えを切り替えることが出来たのであろう。
ところで私はたくさんのカードをばら撒いて商売する信販会社という存在が元々、嫌いである。なぜ嫌いなのかを自己分析してみたところこういう結果になった。まったく“顔”の見えないところで、顧客に対して“ありがとうございました”の一言もなく、“裏”で金儲けのシステムを作って胡坐をかいているだけにしか見えないからだ。サラ金と同じである。私は昔から、ああいう業界のトップは人間性が腐っているのだと思い込んでいる。なぜ人間性が腐ると考えるかと言えば、自分たちを儲けさせてくれている顧客に対して感謝の気持ちを持っていないし、また持てるような仕組みになっていないからである。人間は、目の前のお客さんに対して「ありがとうございました。」と言い続けていれば決して人間性が腐ることはないが、裏側からシステムの力だけで搾取し続けていると必ず腐敗するものだと私は考えている。客を客とすら思えなくなってくるであろう。人間が金儲けの道具にしか過ぎなくなる。仮に少しでも感謝の気持ちがあるのであれば、カードを所持している人間が自分の金で商品を買う時には無条件に付随するサービスがその人に付与される方式が採択されるはずである。役所でもあるまいのに、まるで株式を分割するように世帯を分割管理して売り上げを膨らまそうというやり方は資本主義的と言えばそれまでだが、人間性がまったく感じられない。私にとって腹立たしくも解せないのはこういうことを言ったり書いたりすると、必ず“共産主義者”のレッテルを貼られることである。確かに共産主義的な意見かも知れないが、人間の社会に対する自然な感性を資本主義と共産主義の二つに大別して一体誰が得するのであろう。さあ、これが第二の設問だ。答えは出さないが、皆さんそれぞれによく考え続けていただきたい。
感情の赴くままにまたもや脱線してしまった。何も信販会社への悪口が今回の記事の本意ではない。元に戻して私が言いたいことは、このように日常誰もが遭遇する、ちょっとした出来事の背景にある事情をきちんと因数分解して理解できる人間がかなり少ないのではないかと危惧されるということである。世の中はとても複雑である。上記に書いたようなことは最も基本的で簡単な因数分解であるが、日本人全体の思考力が低下してくると、この程度のこともわからない人々の世論が暗雲のごとく社会を覆いつくすことになる。もちろん個々人レベルで見れば、わからないからと言って日常生活に支障があるわけではないであろう。むしろ、これが規則だ、あるいはこれが法律(条例)だ、と言われれば何の疑いも無く淡々と受け入れて、自分が本当に人生で傾注すべき仕事や分野にエネルギーを注ぎ込むのが模範的な大人と言えるのかも知れない。そういう時代もあってもよい。しかし今や、そういう時代ではないと私は思うのだ。何ていうか今の日本は、全ての国民が生活の前提と当たり前を疑わなければならない時期に来ていると思えるのである。そうでなければ政権が変わったからと言って、景気も生活レベルも人生そのものも向上しないような気が私にはする。そして私はそこにこそ“文学”の本来の役割があると考えているものである。もちろん新聞にも実生活の役に立つことがたくさん書かれている。しかし新聞が決して書かないことというものは確かにあるのであり、本当に人生を深化させ向上させるのはそのような新聞やTVが触れない感性だと思う。ところが前回にも書いた通り、今の日本は文学の言葉や表現すら衰退してしまっており、感じたことをはっきりと伝える瑞々しい感性や元気がまったく感じられない。これでは世界有数の自殺国家であっても当然である。おかしいと思えることは、きちんと筋道を立てて論理的に主張する能力が生きる力であると言っても過言ではないのではないか。