奇妙な一日 3/4
家に帰って風呂に入り、今日は朝から奇妙な一日であったなと振り返った。どういう訳か、おばさんに興味を持たれる日であった。私は元々、他人から気安く声を掛けられるようなタイプではないはずである。何かがおかしい。不思議な感覚が私を包む。
風呂から上がり、バスタオルで体を拭いているときに、あっと思った。その時、突然にわかったのである。その日、一日の出来事の背後に隠れていた意味が見えた。言葉にするには憚りがあるが、清水由貴子さんである。前回の記事で、あのように清水由貴子さんの名前を出したことは心のどこかで気になっていた。清水由貴子さんは生きている人を通じて、私に感謝の気持ちを伝えようとしていたのである。自分が生前に言いたくても言えなかったことを、あなたは勇気を持って書いてくれた。ありがとう、と言っているのだ。そう思った瞬間に彼女の気持ちが私に流れてくるかのような仄かな感動を抱いた。清水由貴子さんの霊は、羞恥心の強い若い女性は無理にしても、おばさんの感情に働きかけて私に声を掛けさせるようなパワーを持っているのである。バーで会ったおばさん客が私に、「一期一会のご縁だから」と言っていたのはそういうことである。私はその瞬間、確かに“わかった”のである。根拠などまるでなく、禅僧が頓悟するようにただわかったのだ。
しかし人は言うであろう。それはある種のこじつけられたストーリーに過ぎない。独我論的な観念論が生み出した思い込みに過ぎず、客観的には一顧だにするべき価値のある話しではないと。実はそのような批判は私自身よく理解できるのである。というよりも寧ろ私の理性や思考は、そのような批判的な視点や見方が出発点になっているからだ。だが時に私の思考そのものが自律的に、まるで一つの生命体のように合理的な世界を突き抜けて霊的な領域にまで飛翔してしまうのである。これは芸術的な衝動に通じるものがあるのかも知れない。あるいはルドルフ・シュタイナーが言うところの“純粋思考”とはそのような性質をもった形而上的な運動なのであろうか。しかしいずれにせよ、私は通俗的に霊感と類別されるような能力などまったく持ち合わせていないし、また霊的な世界そのものも少なくとも世俗的には搾取や支配の道具にしかなり得ていないと思っている。霊的世界が社会的な共通言語となることは非常に危険なのだ。私は作家ではないのだから無理に尤もらしい話しをつくる必要がないことはよく承知している。私の文章表現は、誰におもねることもなく、ただひたすら自らの思考や感覚に忠実であるところのアートであり、社会批判であり、自分自身を追求するための哲学だ。私は自分で言うのも何だが、ものすごく純粋で、ものすごく捻くれているのである。
そこで正直に告白しなければならないが、風呂上りに抱いた霊的な感覚は日を追うごとに薄らいでいった。その代わりに、この文章を書き始めた頃からある“妄想”が入り始めたのである。この妄想内容を書くにも勇気がいる。幼稚な人間として受け止められる可能性があるからだ。しかし、妄想に幼稚も高尚もない。妄想は妄想である。
6月18日の夜バーで出会った二人の女性は、私のことをよく知っている何らかの組織が送り込んできた工作員のように思え始めたのだ。集団ストーカーのネット記事に影響されたのかも知れない。しかしそのように思えてしまう理由も確かにあった。まず第一におばさんとリエちゃんの関係である。一目見た時によく似ているなと思ったのであるが、会話の雰囲気から明らかに親子ではなかった。それはおばさんが私に、息子がいると言っていたことからも明らかであった。娘の前で母親がそのような言い方をするわけがない。そこで仮に二人が同じ宗教組織に属する信者であると考えれば30歳差近くある珍しい組み合わせも合点がいく。私がバーで二人に、「どういうご関係なのですか。」と聞いた時に、おばさんが「姉妹よ。」とはぐらかせるような物言いをしたこともそれらしく感じさせる材料だ。私が直感的に二人がよく似ているように見えたのは、二人が同じ信念体系を共有している同志であったからではないのだろうか、と考えた。二人は私に、ハニーフラッシュじゃなくて…ハニートラップ(この言葉がいつもすぐに出てこない。何か理由があるのだろうか。)を仕掛けてきたのではないか。こう考えると一層、辻褄が合うような気がしてくる。若い女性(リエちゃん)がバーでいきなり私に声をかけてくるようなシナリオはあり得ない。かといっておばさん一人ではハニー(蜜)にはならない。おばさんとリエちゃんが揃ってこそトラップ(罠)なのだ。ターゲットに安心感を与えるおばさんと、餌としての若い女。釣り上げられる魚たちの気持ちもわからないではない。現実にハニートラップは行われているのである。中国で日本の外交官が騙されるだけではない。日本国内でも60年代や70年代の学生運動で頻繁に使われた手口であったらしい。そういえば、ミラン・クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』にもそのようなシーンがあった。ハニートラップであると考えると、おばさんが私に話しかけてきた第一声が「飲みっぷりがいいから気に入った。」とはいかにもそれらしく笑えてしまうほどである。おばさんは役所に勤めているかのような理知的な雰囲気もそこはかとなくあって、決してだらしない感じではなかった。そのようなおばさんがバーで近くに座っている男にいきなり声を掛けてきて、15分後ぐらいに飲み友達になってくれなどということがあり得るだろうか。ちょっと考えにくいのである。このように考えていくとリエちゃんがお手洗いに席を立ったのは、化粧直しではなくどこかの本部に電話するためだったのではないかと妄想は膨らんでいく。
たとえば以下のような会話である。
リエちゃん「只今、ターゲットとの接触に成功しました。今後の具体的な指示をお願いします。」
本部「そうか、そのターゲットは酒を飲んでいる時にも、敏感で警戒心が強い。常に心休まることのない男だ。君からアプローチをかければこちらの目的を見破られてしまう可能性が高い。君は控え目に大人しくしているだけでよい。その方がターゲットの気を引く効果がある。」
リエちゃん「ラジャー。このまま作戦を継続させます。」
このように書くとお笑いのネタのようであるが、私は本気でハニートラップの可能性を考えたのである。前回の記事内容から暗に創価学会の関与を示唆しているように思われるかも知れないが、実は必ずしもそう思ったわけではなかった。こう言っては何だが、創価学会がそのような“お洒落”な真似をするというイメージは私にはないのである。むしろどちらかというと、根拠などまったくないがキリスト教系の宗教団体にオルグされかけたのではないかという印象(妄想)の方が強かった。しかしいずれにせよ二人がバーで私を待ち伏せする方法をいくら考えても思いつかなかったのである。確かに私が難波に出かける時には、そのバーに立ち寄る可能性が高い。よって私の行動パターンを熟知している人間なら、私がビックカメラの書籍売り場に立ち寄ったところで、バーに先回りして待ち伏せすることは机上の論理としてはあり得ないことではない。しかしその日の夕方に私が突然パソコンの本を買いに行こうと決めて出掛け、難波に到着するまでの僅か30分ほどの間に、どこからか降ってわいたように工作員が登場して馴染みのバーで待ち伏せするなどというストーリーがまったく馬鹿げた考えであることぐらいはわかる。つまらない娯楽映画のような筋書きである。この馬鹿げた考えを正当化しようとすると必然的に24時間監視され続けているとか、もっと極端な思い込みになると、“思考盗聴”などという超能力で説明せざるを得なくなる。