小説『八日目の蝉』
おいおい、黙って人様の赤ん坊を連れ去るとは何たる事や。
一体どないな神経しとるねん。
子供の親がどれだけ心配し、嘆き悲しんでるかわからんのか、この馬鹿女。
そもそも住民票も戸籍もない子供を自分で勝手に名前を付けて、どないして育てていくつもりや。学校にも行かされへんやないか。
と、フィクションだとわかっていても腹が立ち、いらいらする。小説『八日目の蝉』(著者 角田光代、中央公論新社)の話である。
主人公の野々宮希和子は不倫相手の家に侵入し女の赤ちゃんを誘拐する。薫(カオル)という名前を付けて子育てをしながら逃避行の旅を続ける。そういう内容の小説である。全体の構成は大きく二部に分けることができる。前半は誘拐犯、希和子の視点で語られる。身元がばれそうになる度に、住む場所を移し変えてゆく。そのような危うく不安定な生活でありながら誘拐された薫の描写がやたらと可愛くて読む者の心を揺す振る。3年半の逃亡生活の後、ついに希和子が逮捕される場面で前半が終わる。
そして後半は何と17年後、誘拐された子である薫(本名、秋山恵理菜)の視点に変わる。誘拐犯の希和子を恵理菜は「あの人」と呼ぶ。この前半から後半へ、ぱっと主体が切り替わる手法が目がくらむような鮮やかさで小説世界のリアリティーに読者を引き込んでゆく。
一読してうーんと唸ってしまった。心の中で “なるほどなー” と何度も呟く。どこかやられた、という感じが残る。前半で誘拐犯、希和子の愚かさに対する嫌悪がかき立てられる。しかし後半で成長した恵理菜の独白に変わった時点で読む者の感情が不覚にも塗り替えられてしまうのである。最近、私はテーブルゲームのオセロに凝っていて定石や勝ち方を研究しているが、オセロに例えると前半部分で希和子に対する嫌悪で黒々と染まった心が、後半の最後にさあーっと白くひっくり返されてゆくような敗北感覚がちょっと悔しい。
確かにそうなのである。犯罪加害者が醜悪でなければならず、被害者は被害者というだけで必ずしも美化されなければならない理由はない。『八日目の蝉』は被害者である秋山夫妻(恵理菜の両親)の弱さや醜さを描くことによって虚構世界に真実の感覚と事件後の必然性を示している。そして加害者(希和子)の愚かさが、あまりに愚かなゆえに美しく輝く可能性があることも認めなければならない。
身勝手な犯罪を嫌悪する社会常識、道徳観念と歪んだ母性本能への寛恕がこの小説のテーマであるというと作者は嫌がるかも知れないが私にはそのように感じられた。愚かさの中に美しさを見つける大衆小説である。そして読者の心理がオセロゲームの白石と黒石のようにどのように移り変わってゆくかを読む力は女性作者ならではのものである。『八日目の蝉』はまさに女の小説である。女の目で見た世界ではなく女の世界そのものを描いている。もちろん男も登場するが男は皆、無力である。かつての希和子の不倫相手であり恵理菜の父親である秋山丈博は、恵理菜が戻ってきてからも家の中で置物のように動かず酒ばかり飲んでいる。恵理菜が子供を身ごもる不倫相手である岸田も恵理菜の父同様に存在感が薄い。何ていうか、この小説に出てくる男たちは女をものにすることが出来ても女の世界(論理)に立ち向かえないでいる。いや正確に言うと小説世界だけでなく、全ての男が女の論理に立ち向かうことなど考えもしない。・・・私以外は。
一口に女の世界と言っても濃淡がある。希和子が逃亡中の一時、身を寄せていた“エンジェルホーム”は女が最も濃い場所である。流産や堕胎の経験がある女ばかりを集めた共産主義的なコミューンであり、敷地内で栽培した野菜や加工食品を通信販売や車で近隣住民に販売して暮らしを立てている組織である。そこでは性差や財産所有、名前などの一切が否定され全ての執着を捨てることを要求される。また男が排除された女だけの世界でもある。
著者の角田光代さんがなぜこのような組織を小説の中に登場させたのか、その意図はよくわからない。しかし現代社会の“女”を表現するためには旧来の方法である男世界との対比ではなく、女の濃淡を描く他なかったのではないかという気がする。それで作品に陰影を持たせるためには最も女が濃い場所を書かなければならない必然性があったのではないか。しかし当たり前のことだが、女だからと言って女が濃い場所を好むとは限らない。むしろこの小説においてエンジェルホームは楽園などではなく、子供時代に理由があってその施設内で育てられた経験がある女性にとっては忌まわしい記憶以外の何物でもないものとして描かれている。因みに私が言うところの女の濃淡とは、女性一般の社会進出や地位とは無関係である。単に女性的な感性や女性優位思想の濃さに過ぎない。日本は先進国において女性の社会進出や政治意識が遅れているにも関わらず、女性的な感性ばかりを優遇して根本的な欠陥をごまかそうとするから世の中がおかしくなっているのだと思われる。女性は結婚することも子供を生むこともためらい、かと言って一人で生きてゆくことも難しい。女性の制度を悪用したり、極端に自己中心的な女性が増えて家庭が崩壊してゆく。当然、子供も不幸になる。この小説のように結婚しないで不倫に走る女性も多いであろう。また女性のモラル欠如を注意できるような社会土壌は皆無である。なぜなら女性感覚は商業ベースに強く結びついていて批判することはタブーだからである。
言っても無駄だとは思うが結局は政治が悪いのである。政治が悪いということは自民党が悪いということと同義である。なぜなら日本には自民党の政治しかないからだ。
現実世界にも子供を誘拐しないまでも希和子のようなタイプの女はたくさん存在する。共通した特徴は自分だけの原理原則、自分が思い描いた物語から離れることができないということである。社会性が欠如しているとも言えるが徹底して“自己肯定”である。希和子の場合は自分の原理原則や物語が社会的肯定の象徴である“母性”と結びついているから悪いことをしているという感覚がまるでない。私は前回の記事で日本人のマナーは基本的に“自己否定”であり、“恥じらい”や“控えめ”などの自己否定が失われた時にマナーは途端に悪くなる、と書いた。希和子の誘拐は自己肯定の極致であるとも言える。著者が希和子という人物像をよく理解できていると感心した点があるが、それは彼女のような人間の内面には自己否定の機能が失われているから基本的に反省がないのである。作品中における裁判の中で、被告人希和子は裁判官から「具体的に謝罪したいことはあるか」と聞かれて、「四年間、子育てと言う喜びを味わわせてもらったことを感謝したい気持ちだ」という場違いなことを言っている。謝罪は自己否定であるが、感謝とは自己肯定である。もう一つは希和子が不倫相手である秋山丈博の妻、恵津子からいやがらせ電話で言われた“がらんどう”という言葉に深く傷ついたということである。がらんどうとは空っぽという意味だ。希和子は秋山丈博との間にできた子供を堕胎しており、それが赤ちゃん誘拐の原因になっている。
あんたなんか、空っぽのがらんどうじゃないの。
あなた、自分の子どもを殺したんでしょう。信じられない。あんたが空っぽのがらんどうになったのはその罰じゃないの。殺された子どもが怒ってんだよ。ざまあみろ。
女の言葉はいつも相手の急所を射抜く。恵津子の言う“がらんどう”とは子供を産めない体という意味があるのかも知れないがそれだけではないと思う。もっと根本的な実在感覚に訴える言葉だったのではないか。(実際には希和子は病院で子宮内腔癒着と診断されたが手術を受ければ妊娠できる可能性があると説明を受けていた。)がらんどうとは中身がないということである。自己否定の機能がない人間にとって“中身”とは初めから無条件になければならない。わたしに中身がないなんて考えられない、希和子もそう思っていたに違いない。
ところがいきなり同性から、「あんたはがらんどうだ」と指摘されると自分という存在が揺らいでしまうのである。
私は希和子は人格障害者だと思う。この小説ではっきりさせておかなければならないことがある。子供を誘拐された被害者である秋山夫妻にも人間的に問題があると言えるかも知れないが、それでも彼らは正常である。しかし希和子はどこか異常だ。しかしその異常性が見えにくいのである。読者の中にも希和子の人格に病理を感じた人は少ないのではないだろうか。著者の角田光代さんは希和子が人格障害者の傾向が高いことを意識しながらこの小説を書き進めたのではないかと思う。現代社会はうつ病患者が急増しているが、人格障害者はうつ病以上に多いのではないだろうか。しかし人格障害とは平均からの乖離であるから、人格障害者があまりにも増えすぎると回りの環境に埋もれるように病理が一見、正常に見えてしまうのである。そのように考えると『八日目の蝉』のテーマは正常と異常の境界とも言えるのである。法律的には人格障害者であるからといって責任能力がないとはみなされないが、この日常生活に蔓延するプチ異常をきちんと見つめていかないと心神耗弱や心神喪失適用の問題は永遠に曖昧なままのような気がする。
作者はそのような社会的に微妙な問題には触れることなく、徹頭徹尾、人間そのものに温かな眼差しを注いでいる。それが女性的な優しさであるとするならば、われわれ男たちはもっと勇気を持ってタブーを恐れず発言していかなければならない時期にあるのではないか。
と、言っても無駄であることはわかっているが。
無駄ついでに書いておく。ああ年末ジャンボは当たらないものか。
有馬記念で一発勝負はどうや。
