自称詩人のつぶやき
私は自称詩人である。自称することに意味がある。
全ての画家が一度は自画像を描くように、真摯に自分自身に向き合わなければ芸術というものは生まれない。詩人にとっては自分が詩人であることを認め、宣言することが詩人としての第一歩であろう。
だから私は自称詩人であると宣言する。今、ここに一人の詩人が誕生した。
いかにも簡単そうに見えるかもしれないが、私にとってこの一歩にたどり着くまでが艱難辛苦の道のりであった。私は自分が詩人であることを以前から薄々とは気付いていたが、それを認めることに対して心理的な抵抗感や葛藤があったのである。
その理由は、まず何よりも私はこれまでの人生において詩というものに対してほとんど関心や親しみを感じてこなかったからである。これほど明白な理由はない。私はまったく詩を読まず、そして作ることもなかった。だから自分が詩人であるなどと、おこがましいことを言える道理がなかったのだ。もう一つは私には社会の矛盾や欺瞞に対して透徹した論理で立ち向かいたいという気持ちが常に熾火のように赤々と燃えていて、そのような自分の現実主義的な原動力が詩という表現にはそぐわないように感じていたからだ。
しかし私という存在には詩を書かずとも、“言葉に仕える”というべき感覚、あるいは使命感のようなものがいつの頃からかはわからないが確かに備わっていた。詩人という人種をどのように定義するかということになるのであろうが、生意気なことを言わせてもらえば、立派な詩を書くから詩人なのではないと思う。あるいは誰かにお前は詩人だと認められたから詩人になるのでもなく、成長するに及んで徐々に詩人になっていくものでもないように私は感じる。
詩人は生まれながらにして詩人である。詩人とは宿命であり、絶滅寸前の社会的に特殊な実在である。理解されない人間でもある。
言葉に仕えること、そして言葉の背後に存在する全体性に繋がりを持つことによって言葉に生命の息吹を与えるのが私が定義するところの詩人である。
初めに詩人ありき、である。詩人の言葉とは自己顕示ではなく、追い詰められたように止むを得ずそっと囁かれるものである。
つまらない言い訳であるが、私はそもそも詩に親しみがないのであるから詩が下手くそなのは当然である。そんなことは誰に言われるまでもなく自覚している。私はほとんど詩を作らない、また詩が下手な本物の詩人である。
古今東西のあらゆる詩を読みつくした上で、言葉の配列や効果を研究し尽して作られたような詩には“生命”がない。一部の人間にしか理解できないような難解な言葉の羅列による現代詩は、裁判官の書く判決文のようなものである。詩というものが権威を求めた時点で既に詩ではなくなっているのである。
そのような詩を作る人はオーソライズされた似非詩人である。
私こそ詩人である。
詩人の“本物の言葉”は山を動かし、死者を生き返らせる。もちろん現実には山は動かず、死者は蘇らないであろうから比喩ではある。しかしそのような、“言葉の奇跡”を本気で信じ、挑む者こそ詩人であると言えるのだと思う。似非詩人はそのような言葉の可能性を否定するであろう。
詩人とは生き難い人種である。その理由は仕える対象が“言葉”であることに尽きる。言葉は日常のコミュニケーションの手段でもあるからだ。音に仕える音楽家や色に仕える画家との違いがここにある。非詩人は言葉を手段として利用する。弁護士や政治家、コピーライターも皆、同じである。言葉の効果を最大限に利用して世界に働きかけようとする。その訴求力やセンスが才能なのである。しかし詩人にとっては言葉は仕える対象であり神聖なものでもあるので、自分に都合よく利用しようなどとは思いもしない。よって言葉を利用する非詩人と言葉に仕える詩人が相通じることはあり得ない。詩人は皆無である。画家や音楽家はいくらでもいるが、詩人はどこにもいない。詩人は仲間を探そうという気もないのでいつも孤独である。
詩人の言葉は生き残った日本狼の遠吠えであり、地球に降り立つ異星人が流す一筋の涙である。詩人は、非詩人の言葉で穢されて傷つく。それゆえ詩人は非詩人を密かに恐れ、そして憎んでいる。すなわち社会全体に対して敵対的である。詩人の苦悩は海よりも深い。しかし言葉を通じて神に繋がっているので心安らかでもある。
詩人は無力であると同時に危険である。
私こそ詩人である。
ならば今ここで一つの問いかけをしよう。
詩人と非詩人の違いは何なのか。
実はその答えは私自身にある。私もまた非詩人である。当たり前のことだが、四六時中言葉に仕えてなどいられない。言葉を手段として利用しながら生きている。自分を正当化し他者を攻撃することもある。
「これ、なんぼしますの。もう少し安くなりませんか。」
という時の私は、非詩人の典型である。というよりも私はほとんど非詩人である。客観的に見積もると私の99%は非詩人である。しかし残りの1%が問題なのだ。僅か1%の何かが私という存在を異質な者にしている。1%がこれまでの私を苦しめてきた。他者には理解されず、かと言って自分を誤魔化すことも出来ない。私は1%の正体がわからずに、何とかして異物を取り除こうともがいてきた。自分の魂を覗き込むようにして、腫瘍のような1%を摘出してやろうと努力したが無駄であった。1%は呪いのように私につきまとって決して離れてはくれなかった。結局はその1%こそが私の本当の姿であり、使命であると認めざるを得ない。“私”というものは我ながら不可解である。私は1%の詩人である。
これを言い換えると私は1%の市民である。社会は私という存在を、私が私の1%を取り除こうとしたように認めたがらず、無視するであろう。異物は安定を脅かすからである。保守的な権威の敵であるからだ。しかし結局は、私が私の1%を認めざるを得なくなったように、社会は私の言葉に向き合わざるを得なくなる日がくるであろう。問題はその時に私の中の1%がどのように変質してゆくかだ。飲み込まれて1%が消滅してしまえば詩人としての私は死んでしまうであろう。そういう意味では思考なき民主主義が私を守ってくれているとも言える。しかし意外と社会は新たな方向へ変化してゆくような気もするのである。市民社会が進歩してゆくのであれば、詩人としての私の有毒な言葉は消滅してもかまわないように思う。
随分偉そうなことを書いたが、現実のところ詩というものは難しい。詩は粘土をこねるように言葉をこねて出来上がるものではない。私にとって詩を作るという作業は、言葉未然の何かがどこからともなくふわふわと蝶のように飛んでくることから始まる。その、ふわふわとしたものを上手く捉えて思考の力で言葉の形にはめ込んでゆく。そしてその言葉が自分自身を映し出すと同時に、自分を越えた大きな意思が無意識に表現され重なりあっているところの芸術である。作詩はいつも偶然がきっかけである。そして偶然と必然の橋渡しをするような作業である。
ところが言葉未然のふわふわしたものは中々私の元に飛んで来ない。4行ぐらいの一篇の詩を作るよりも長文の屁理屈を書いている方がよほど楽である。
よって当面は屁理屈を中心にした記事を書いてゆきたい。
自称詩人は株の大暴落で少し落ち込み気味でもある。日経平均が気になって優雅に詩など考えているどころではないのが正直な気持ちである。
なぜなら私は99%の非詩人なのだから。