母の子殺しについて 2
結果ではなく、動機を裁くということはそういうことなのである。社会内部の閉ざされたコスモロジーの機構を維持するためには、調書における作文のように型にはめて都合よく物語を作り変えるか、あるいは排除(免罪)するかのどちらかしかないのである。
因みに話しは逸れるが、童話の『フランダースの犬』が日本でだけこれほどまでに愛されるのは日本社会のそのような特色と大いに関係があるように私には思える。そこにあるのは“破滅の美学”などというほどの高尚なものではなく、弱きもの、無力で清らかな存在の死を傍観して慈しんでいるだけではないのだろうか。本当の人権意識が発達した欧米では、大人が自分たちの誇りを守るためにも我々の国では子供にそのような酷い死に方はさせないと憤るのである。一般的に欧米人は三島由紀夫の小説『金閣寺』における破滅の美学を日本の真髄であると勘違いしている向きが強いが、文学における観念と社会現実は分離して考えなければならないと思う。
『そして殺人者は野に放たれる』において日垣氏は家族殺しについて
「子殺しを無罪にする日本の司法と刑法三十九条の暴走は、もはやとどまることを知らない。1960年代以降、現代に至るまで、鬱病がらみの子殺しは無罪判決の博物館と化している」と書いている。
3人もの我が子を殺害した母親に対して1989年、浦和地裁が被告に対し驚天動地の「被害者論」を展開して無罪判決を確定させた判例を上げている。
曰く
「《本件犯行によって最も決定的な被害を受けたのは、自らの腹を痛め日頃から深い愛情を注いで慈しみ育ててきた愛児三名を一挙に失い、夫との離別はもちろん、十数年にわたって営々と築き上げてきた家庭の崩壊に直面した被告人自身であると言うことができよう。》
ということである。これは権力が不可解なる犯行を社会内部の通俗的な物語に書き換えて、犯罪の質的変換を成している典型例であると言えよう。
但し、日垣氏が同書を執筆した時期から見て今日は刑法39条に対する時代意識が変化しつつあることも事実である。来年度から裁判員制度も実施されることになる。飲酒運転の罰則が非常に厳しくなったことにより、アルコールの影響下による犯罪も心神耗弱を認めにくくなっているのではないだろうか。以前には酒や覚醒剤などで酩酊状態にある者が犯した殺人などの犯行が無罪になることが多かったようであるが、今日では少なくとも新聞沙汰になるような事件では裁判官も世論を意識した判決を書かざるを得ないであろう。
では何が新聞沙汰になり何がならないかというのはまた非常に微妙な問題であると思われる。いわゆる精神疾患が絡んだ人権報道のあり方ということであるが、日垣氏が述べるところの「日本では精神分裂病だけでなく、鬱病との関連があるとみなされただけで、人殺しも無罪または刑半減の対象になってしまう」ゆえに新聞やテレビが報じないという状況ではすでになくなりつつあるように感じられる。日本では近年、鬱病患者が急増している。極端な表現ではなく国民全体が鬱病化しているような時代に、一度でも精神科に診てもらったことがあるだけで殺人が無罪になるのであればそれこそ世の中の統制がとれなくなってしまうからだ。
しかし刑法39条が削除されるような兆候はまったく見られないし、そのような議論も聞かれない。権力が刑法39条の存続にこだわるのであれば、裁判官は、“そのような法律がある以上適用せざるを得ない”として、最も国民の同意が得られやすい事件に集中して心神喪失、心神耗弱を適用し続けることになるのではないであろうか。私はそれが、“母の子殺し”であると思うのである。子供を殺した母親が無罪放免になって、殺された子供以外の全てが忘却の中で幸福になれればそれでもよいのかも知れないが、世界は呼応するのである。要するにそのような社会意識の中では、なぜかはわからないが“母の子殺し”がどんどん増えていくのである。
もちろん多くの父もまた子供を殺すのであるから母の子殺しだけを強調するのは不公平であるとの意見も当然あろうが、母は愛する我が子を“生むがごとく殺す”ので父が子を殺める感覚とはどこか異なっているように思える。“生むがごとく殺す”と言った不可解で難解な人間心理は追求したところでわかるものではないであろうが、心神喪失の一言ですませるべきではないのではないか。
ここに動機を裁くことの論理破綻と思考放棄がある。私は犯行の動機を詳しく追及することは非常に重要だと思うが、やはり動機自体を裁いてはいけないと思う。裁く対象は犯行結果であることが司法の出発点になっているべきであり、それが今日的な社会善だと考える。動機ではなく結果を裁くような司法のパラダイム転換が成されるならば、おそらく裁判官の書く訳の分からない悪文は消滅し、司法は市民感覚に近づくとともに知的洗練への第一歩を踏み出すことになるのではないであろうか。
最後に、最も重要だと思われる点は日垣氏が主張している通り現行刑法が差別主義的な臭いにまみれたものであるということである。刑法第40条の≪瘖啞者ノ行為ハ之ヲ罰セス又ハ其刑ヲ減刑ス≫がようやく削除されたのは最近の1995年である。それまでは立法時における
「≪瘖啞者ノ精神ノ状況ニ因リ其発達カ常人に近キ者ハ之ヲ罰スト雖モ尚モ完全ナル人ト謂フコトヲ得サルヲ以テ一般ニ其刑ヲ減刑し≫(国会図書館所蔵「政府提出案理由書」)
言葉が不自由な者は完全な人間とは言えない」
という差別的なイデオロギーが条文に生きていたのである。結局は、またそのまま引用させていただければ
「現行刑法が公布されたのは明治四十年(1907年)四月二十四日であり、施行は明治四十一年十月一日である。二十一世紀に至るまで、ほとんど改正がなされておらず、今では使い物にならなくなってしまった。「政局」にばかり熱心なこの国の議員たちは、刑法を時代にふさわしいものにすべく絶えずチェックしようとする姿勢も意思もない。立法を常に担っているとの自覚すらないのだろう。国際的恥部と言うほかない。」
ということに尽きるのであろう。我々は差別が色濃く蔓延していた時代に作られた法律を現代風に無理やりこじつけたものによって管理、支配されているのであるから司法や裁判に違和感や矛盾を感じるのは当然なのである。しかし最近の政治家、特に大臣たる者の発言を耳にしても本当に物事をきちんと考える能力を有しているのであろうかと思わざるを得ず、あまりに悲惨である。
どうしたものであろうか。
母の子殺しについての社会的考察はタブーに触れる。この記事を書いている途中で急に腹が減ってきて、近くのよく行くたこ焼き屋に思わず買いに行った。このような内容のものを書いたところで無意味ではないかといつものように迷いながらである。そのたこ焼き屋は小さな店ながら有線放送のメディアによって大阪で美味しい店20店に選ばれDVDに収録されるぐらいなので本当に美味しいのである。おばさんが一人で焼いていて、先に来ていた中年女性と何やら話しをしていた。それが何と福岡市の公園で母親が子供を殺した事件の動機についての会話だったので驚いた。母親は脚が悪くて子供の手助けが必要であったのに、子供がそれを嫌がった。また子供が母親に対して授業参観に来るなと言ったことから母親がかっとなって衝動的に殺してしまったというようなことだった。たこ焼き屋のおばさんは、
「そんなことで自分の子供を殺しますか。私なら自分の子供に何を言われても全然腹が立ちませんけど。」と言った後、私の方を見て
「そんなことで腹立ったりしませんよねえ。」と同意を求めてきたのである。
私はその瞬間に、神からお前の思っていることを心置きなく書きなさいと言われているような気がしたのである。
大阪では神は美味しいたこ焼き屋さんの軒下にこそ在られる。
ということで私もまたちょっと“心神喪失”気味である。だから今回の記事内容に対して反感を持たれた方々、賢明な知性と心優しき心根をお持ちの女性にはご理解いただけると信ずるが、もしそうでなければ私の心神喪失に免じてお許しいただきたい。