ムハンマド・アリは1942年1月17日、米国ケンタッキー州ルイビルの貧しい黒人街で生まれた。本名はカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア。12歳の時、街で自転車を盗まれた。父からの大切な誕生プレゼントだった。クレイ少年が警察に駆け込むと、大柄な警官が言った。《取り返したければ、体を鍛えるんだな》その警官はボクシングジムのトレーナーでもあった。
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18歳でローマ五輪代表の座をつかむと、一気にライトヘビー級の金メダリストへと駆け上がった。
同年秋、地元ルイビルに凱旋した。街をパレードし、市長主催の祝賀会が開かれた。生まれてからずっと黒人ゆえの理不尽な差別を受けてきた。それを、この金メダルが変えてくれる。そうクレイは確信した。ある日、首から金メダルを下げて、友人と白人専用のレストランに入ってみた。クレイの顔を見た店主が言った。《黒人はお断りだね》店を追い出され、更に居合わせた白人グループから因縁をつけられて、乱闘になった。帰り道、クレイはオハイオ川に金メダルを投げ捨てたという。
彼の自伝の逸話である。後にこの出来過ぎたエピソードの真偽を問われ、本人は口を閉ざしたが、彼の長い闘争人生は、この時期を起点に始まった。
プロに転向したクレイは、差別への怒りを拳に込めて練習に没頭した。
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賭率1対8という圧倒的不利の予想を覆してKO勝ち。22歳で世界王座へ《蝶のように舞い、蜂のように差す》と形容された。
世界中を驚かせた翌日、クレイは更に衝撃的な会見を開く。急進的な黒人イスラム運動組織の一員になることを表明。さらに《カシアス・クレイ》という本名を《白人が付けた奴隷の名前だ》として《ムハンマド・アリ》というイスラム教の名前に改名したことを発表。この行動は、人種差別撤廃が一向に進まない米国への宣戦布告だった。
圧倒的な強さで防衛を重ねたアリは時代の寵児となる。徴兵カードが届いたのは、その絶頂期だった。
《私の宗教的信仰は戦争を受け入れない。この教えは私の生まれる前からあった。徴兵を逃れる為の方便では無い》と力説。もうひとつ理由があった。《白人が始めた戦争に何故黒人が行かなきゃいけないんだ》政権側にいるのは白人ばかりで、その決定にいつも黒人が従属させられる。そんな《差別社会》への反抗でもあった。
更に続く