石川、七尾があんなこと(震災)になった。

1月11日の日経に七尾出身藤澤清造を愛した西村賢太について語ったコラムがあった(下記)。

これに導かれるまま「どうで死ぬ身の一踊り」を読む。

面白かった!

 

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能登と西村賢太 英文学者・阿部公彦

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年明け以来、地震被災地からの報に接するたび、私はあの人のことを考えてしまう。

能登半島・七尾市の市立図書館は、駅正面の複合ビルにある。3階フロアの大きな部分を図書館が占め、入ってすぐのスペースに「七尾ふるさと文庫館」という、郷土の作家や漫画家の作品、歴史資料などを集めたコーナーがあって、杉森久英や宮下英樹らの作品を手に取ってしばし読みふけることができる。

ところが、地元出身ではないのに、なぜかここに陳列されている作家がいる。西村賢太である。収蔵されている本の多くは著者本人による寄贈らしい。まるで自ら図書館に乗り込んできたかのようだ。

2年前に54歳で急逝した西村は「七尾詣」で知られていた。若い頃から大正時代の私小説を広く愛読していた西村は、20代の終わり頃から七尾出身の作家藤澤清造に熱中、ついに「没後弟子」を名乗るまでになり、月命日には必ず七尾まで出かけて清造の墓参を行い、ある時期は市内にアパートまで借りていた。

変わった人がいる、という噂は広まり、テレビの取材も受けた。西村は七尾はもちろん能登にも石川県にも縁はない。当時は安定した収入もなく、日雇い労働などで稼いだ金をこの墓参につぎ込んだ。金を借りて清造の作品集の刊行も企画し、清造の墓の隣に自身の生前墓を建てたり、墓標を譲り受け東京の自室で保管したりと、その清造愛は周囲の理解を超えたものとなっていく。

しかし、理解を超えたもの、常軌を逸したものには不思議な魅力がある。おそらくそうした逸脱例にこそ、通常のルートではたどりつけない人間の真実があるのだ。

おそらく本人もそれがわかっていた。彼はやがてこの奇妙な清造愛にとりつかれた人物、すなわち西村賢太自身を主人公にした私小説を書き始め、『どうで死ぬ身の一踊り』(講談社)でデビューする。

装丁はどの作品も重苦しく思わず手に取るのをためらうが、開けてびっくり、読み始めると言葉は古めかしいのになぜか軽快、主人公は気が短くて暴力的で尋常ならざる危険さ一杯なのに愛嬌(あいきょう)があり、ひどい話ばかりなのに笑いも誘う。絶筆となった『雨滴は続く』(文芸春秋)に至るまで、主人公のちぐはぐさは一貫している。

私は西村作品の書評を10本ほど書いたが、本人とは数回会った程度だ。担当編集者たちの話を聞くと、一緒に仕事をするのがたいへんな人で、完成した著作物には異様なほどの完璧さを求め、爪痕一つついていたら激怒する。従って献本は手袋をはめて梱包したが、そうまでして届けた献本は封をあけていないとか、宴会ではやたらと食べ物を注文させるわりに本人はたいして食べないとか、ちぐはぐぶりは筋金入りだった。

昨年の夏、そんな作家のことをもっと知ろうと七尾を訪れ墓参りをした。墓地には藤澤清造と西村の墓が仲良く並び、大雨の直後だったが、作家の愛飲した銘柄のタバコや焼酎がところ狭しと供えられていた。寺にいたる目抜き通りは今では往時の賑(にぎ)わいはないが、古い商店や家屋の造りは、かつて前田家の城があった町らしい風格を感じさせた。

西村賢太は、世間が注目するような大きな出来事を作品に取り込むのを徹底して避けていた。報道を観(み)ながら、彼なら今、何を書くだろう、と考えている。