私は、“偉い人”に、何か頼み事をしたい時、率直に正面からぶつかっていくようにしています。
偉い人は、地位が高い、年齢が高い、年収が高い=大金持ち、知恵が深く広い・・・色んな偉いがあります。本当に偉い人に、何か真剣にお願いしなければならない時には、思い切って行くことです。恐れることはありません。そのお願い・相談ごとがまっとうなものである限り、きちんと話は聞いてくれるでしょう。恐れなければならないのは、自分自身の志とその内容です。
自分自身はと言えば、実は短期で内心は怒りっぽいほうなので、出来るだけ怒らない様に努めています。私的なことで怒ることは避けるように仕向けています。
しかし、私的ではなく、社会的なことに対しては、大いに怒らなければなりません。
政府の施策、学校のあり方など客観的なことに対して怒るべきことはたくさんあります。物事に憤りを感じる事、義憤を感じることは、大義に通じます。
近年、国民を代表し国を治めるべき政治家、地方に潤いをもたらすべき自治体の長、国家繁栄の仕組みを構築し、国民生活の利便性を高めるべき官僚、社員の能力発揮を助長し、会社成長を促進し、経済発展に寄与して社会に貢献すべき企業幹部などの不祥事の続出は、怒りを通り越して公憤激怒の域に達しています。私欲に眩み、果すべき義務をないがしろにするような“偽の偉い人”は、卑怯を憎む日本の恥であります。藤原正彦氏は、「日本人のすべての人々が、惻隠の情や美しい情緒と形を身につけて、素晴らしい社会・品格ある国家を創ることは、祖国日本を救うだけではなく、世界そして人類をも救う」と力説しています。
自分自身に対して怒ることはいいことです。それは反省を促し、成長へのスイッチとなるからです。
孔子でさえ、「一日に三度省みる」のです。いつも心の中を見つめて、自分自身を省み、逆に鼓舞して高める方法でもあります。自分に怒れる人は自分に素直な人・向上心のある人であり、また自分を心から大切にする人なのです。                      
 
『怒りについて』(岩波文庫)を著わした古代ローマの哲人政治家セネカは:
 人間は、愛情をもつ    が、怒りは、敵意をもつ
 人間は、結合を望む    が、怒りは、離反を望む
 人間は、利することを望む が、怒りは、害することを望む
 人間は、見知らぬ人も助けるが、怒りは、最愛の者たちをも襲う
 
と判りやすく比べています。怒りは短期の気狂い、怒ることの醜態を顧み、次にその危険を顧みること程有効なことはない。怒りは絶世の美貌をも醜くするし、平静そのものの顔つきから陰険な顔つきにする。優美な姿が悉く怒れる人から去る、のです。
そう思って、怒っている自分の姿を想像するとゾッとします。


  すぐ怒る、すぐムカツク・・・だから、嫌われる!