2012年10月1日86歳で逝去された神戸製鋼元社長・会長の亀高素吉さんは、私の人生の師であり、恩人でもあります。

亀高さんに私のような野人をお引き立ていただいたからです。

12月2日帝国ホテルで「偲ぶ会」盛大に開催され、多くの皆様がお別れに参列されました。思いがけない方々との出会いがあり、有り難い会でした。

その席上、日本金属通信社高崎社長より同社発行の鐡の専門雑誌への投稿を依頼されたので執筆しました。
その記事が添付のように掲載されましたのでご紹介します。

写真はいずれも、1985年1月「中曽根首相以下大臣の褐炭液化プラント視察状況。
1P目の左端が亀高社長で2人目が故安倍新太郎外務大臣。
2P目の3人で写っている写真の左端が、今から30年前の安倍晋三現首相(当時外務大臣秘書官)お若い時に貴重なお宝です。




改めて亀高さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。山見博康

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亀高さんを偲ぶ

 “もし、亀高さんがおられなければ今の私はない”昨年12月の偲ぶ会にて改めてその意を強くした。そこで、これまでのつながりを顧みながら、天国の師に感謝の気持ちをお伝えしたい。
鉄”との付き合いは入社3年目の1970年大阪厚板販売課に始まるが、73年から4年間は鉄鋼ビル6階の鉄鋼輸出部でホットコイルを担当した。同じフロアに原料部もあり、亀高さんは当時原料部長。将来の神鋼を担う逸材の一人として聞き及んでいた。時に廊下ですれ違った。最初は大きな体躯風貌から何だか怖い感じを抱いていたが、後に、部下に独得のニックネームをつけて周りを笑わせたり、実際にはとても優しい方と分かった。
1977年7月、カタール政府との合弁事業カタール直接還元製鉄所の建設操業にアドミ&セールスアクティングマネジャーとして従事した。翌年4月24日砂漠に忽然と出現した製鉄所の開所式典がアルサニ首長他カタール政府要人の列席の下、快晴だが風が強く砂塵渦巻く中で執り行われた。日本からは、高橋孝吉社長や森泰助専務他幹部の一員として、亀高取締役秘書室長も参列されたことを覚えている。私は、東龍二セクレタリー兼セールスマネジャーの下で最初のサウジ向け輸出契約書にサインした感動の思い出がある。
79年初め東龍二セクレタリー兼セールスマネージャーより、6月のローテーション人事での帰国が告げられた。私は、出身元の鉄鋼輸出部に戻り線材担当を期待したが、辞令は「秘書室広報担当を命ず」。それが、亀高さんの直属の部下になった時で、次長に熊本昌弘現特別顧問、それに畑徹広報担当課長がおられた。
それからというもの、広報という仕事柄何かと直接接する機会を得たことが、私の人生に大きな影響を与えることになったが、その当時は思いもよらぬことであった。
 1981年広報担当課長として神戸本社勤務となったが、その頃亀高常務は、日豪政府協力事業褐炭液化プロジェクトを率先しておられた。
そして、2年後の1981年広報担当課長として神戸本社勤務となった。
その頃亀高常務は、日豪政府協力事業褐炭液化プロジェクトを率先しておられた。それは、豪州ビクトリア州メルボルンから東へ150km無尽蔵に眠る褐炭を液化してガソリンを製造、石油代替エネルギー政策の一環を担う壮大な実験プロジェクト。神戸製鋼がリーディングカンパニーとして三菱化成(現三菱化学)・日商岩井(現双日)・出光興産・アジア石油の5社コンソーシアムが、NEDOの支援を得て国家事業として推進中だった。
私は、3年の広報課長の後エンジニアリング事業部を経て、85年1月から石炭液化推進室に異動し日本褐炭液化(株)のメルボルン事務所副所長として2度目の海外駐在となった。上司だった畑課長も、同社東京本社の経営企画部長として既にそのプロジェクトに携わっておられ、私は引き続き亀高専務、畑部長の下で働ける幸運を得た。そこで広報の仕事や国家事業への従事を通じて、会社を代表として受けて立つ責任感と使命感を学んだのである。
そして4年後エンジニアリング事業部を経て、85年1月から石炭液化推進室に異動し日本褐炭液化(株)のメルボルン事務所副所長として2度目の海外駐在。そこでも日豪のマスコミに対応するために広報も担当した。
初仕事はその年の1月17日、中曽根康弘首相ミッションが故安倍晋太郎外務大臣を始め多くの国会議員を伴って訪豪、豪州首相を案内され褐炭液化プラントを視察された。亀高副社長を筆頭に各社幹部が出迎え、私達は万端の受入れに多忙を極めたことは忘れられない。
 私としては特に、神鋼に3年間勤務し外相秘書として同行された安倍晋三現首相との再会も思い出深い。
このプロジェクトは順調に進み、私は初期の目的を達成する91年の終了まで駐在を希望したが、89年急遽帰国の辞令、広報担当次長として神戸本社に着任、1年半後広報部長の任を命じられた。好きだった広報に再び携われる機会に感謝し、引き続き亀高社長のお膝元で指導を仰げることも有難かった。
 そして社長のリーダーシップにより、USスチールとの提携、アルコアとの提携等々の革新的経営戦略が実行に移された時期であった。私はその意に沿って重要発表をすべて担当できたのは幸運であり、ブランドイメージ向上の役に立てたことは喜ばしい思い出だ。
 1994年1月、私はデュッセルドルフ事務所長を命じられた。お陰で中東、南半球に次いで3度目の海外駐在が北半球という珍しい経験に慣れてきた1年後にあの阪神大震災が起きたのだ。
その1月17日私は日本からの顧客アテンドでミュンヘンに宿泊していた。早朝6時(日本時間14時)「日本が大変だ。テレビを見よ」と顧客に起こされCNNのスイッチを入れた途端、神戸生田神社倒壊の映像に衝撃を受けた。顧客の了承を得て直ちに600km以上離れたデュッセルドルフまでアウトバーンを時速200kmで戻り、顧客やメディアからの問合せ対応を行った。なぜなら、大被害を被った神戸製鉄所の主力製品が世界の6割を占める弁バネ用線材! ベンツやBMW始め多くの欧州車も神鋼製で走っているのだ。そこで数日後に帰国、納期や今後の供給等の問合せ対応の為検討会議に出席した。
この未曾有の大震災に対し亀高対策本部長の陣頭指揮の下、4月奇跡的な早さで高炉に火入れ、稼働を開始した。お陰で顧客対応が容易になったことは言うまでもない。 トップから現場まで一丸となった危機対応力に感銘を受け、その後「NHKスペシャル」にて放映された感動的復興物語に誇らしい気持ちを抱いたものだ
 1996年ヘルシンキにおけるIISIの為、亀高社長ミッションに同行したことも懐かしい思い出の一つだ。ロンドン事務所での下打ち合わせから合流、1週間位日々深夜まで薫陶を受ける機会を得た。広報の仕事に加え、世界のエグゼクティブとの交流についても実地に教わったことは普段学べない貴重な経験となった。
 1997年私は、帰国にあたりスーパーカー商業化ベンチャー企業への出向希望が了承されたが、神鋼のそんな寛容さや懐の深さにも感謝したい。
そして55歳で早期退職。2年後の2002年広報・危機対応コンサルタントとして山見インテグレーター(株)を設立。現在はコンサルティングの他、広報や危機対応に関するセミナー講師や執筆などにより生業を立てている。著作も、年初に上梓した『危機対応マニュアル』を含め広報専門書を中心に、現在15冊目を執筆中である。こうして細々ながら仕事を続けられるのも、係長から部長まで20年近く亀高社長の下で直々に学べたお陰である。
 亀高社長との思い出で忘れてはならないのは「ラグビー」。エピソードも多いが、1985年来豪時、駐在員との懇親会にてどこかに長い国際電話。その相手は、実は大学ラグビーの大物選手でだった由。また、シドニーでの夕食時に、豪州代表ウイング、イアン・ウイリアムス選手が参加したのも懐かしい思い出だ。
 私が帰国した89年、平尾誠二主将(現総監督)率いるスティーラーズが日本選手権初優勝を飾った。1991年3連覇目の決勝三洋電機(現パナソニック)戦では、かのウイリアムス選手が、ロスタイムのラストプレーで、平尾選手のパスを受け50m独走トライし大逆転優勝の立役者となったことは、日本のラグビー史にいつまでも刻まれるプレーであろう。私はラグビー部の広報を含めて陰の支援者でもあった。時には、選手へ栄養補給を行ったり、特命を受けて外人選手やその夫人の相談に乗ったり・・・。そして新日鐵釜石と並ぶ7連覇を達成したのであるがいずれも鉄鋼メーカーというのも誇らしい。また次長・部長として5連覇迄見届けることができたのは幸運であった。
その後私は独立するなど暫くご無沙汰していたが、2008年「82歳で北里大学大学院薬学博士号取得!」との新聞報道に“流石!”と感銘を受けると共に改めて敬愛の念を強めたものだ。
これからも何かにつけて思い起こし、「猛々しくあれ」「向う傷を負え」等々の訓えに勇気づけられない日はないであろう。天国にていつまでも厳しくそして優しく見守って頂いていると信じ、安らかなるご冥福を心より祈りたい。
 「真砂なす数なき星のその中に 吾に向かひて光る星あり」(子規)