それからというもの、広報という仕事柄何かと直接接する機会を得たことが、私の人生に大きな影響を与えることになったが、その当時は思いもよらぬことであった。
 1981年広報担当課長として神戸本社勤務となったが、その頃亀高常務は、日豪政府協力事業褐炭液化プロジェクトを率先しておられた。
そして、2年後の1981年広報担当課長として神戸本社勤務となった。
その頃亀高常務は、日豪政府協力事業褐炭液化プロジェクトを率先しておられた。それは、豪州ビクトリア州メルボルンから東へ150km無尽蔵に眠る褐炭を液化してガソリンを製造、石油代替エネルギー政策の一環を担う壮大な実験プロジェクト。神戸製鋼がリーディングカンパニーとして三菱化成(現三菱化学)・日商岩井(現双日)・出光興産・アジア石油の5社コンソーシアムが、NEDOの支援を得て国家事業として推進中だった。

私は、3年の広報課長の後エンジニアリング事業部を経て、85年1月から石炭液化推進室に異動し日本褐炭液化(株)のメルボルン事務所副所長として2度目の海外駐在となった。上司だった畑課長も、同社東京本社の経営企画部長として既にそのプロジェクトに携わっておられ、私は引き続き亀高専務、畑部長の下で働ける幸運を得た。そこで広報の仕事や国家事業への従事を通じて、会社を代表として受けて立つ責任感と使命感を学んだのである。(続く)