バリューインテグレーター(価値統合家)の
     『至誠の咆哮』
今日のテーマ:「人を知る法」第39条
      「不平・不満」

 自分の欲望が満たされないと人は不平、不満を持つ。その不平不満、意地、我儘をじっと見ていると、その人間が何を欲しがっているのかがよくわかる。しかし、大人は赤ん坊が乳を欲しがる様に正直には自分の欲望を表さない。何故なら、大人には見栄や体裁があるからだ。しかし、その見栄や体裁を取って
しまえば、何のことはない。欲しいものが手に入らないだけの事である。それを尤もらしい理屈や体裁で飾って駄々をこねているだけである。

「みえ」には「見栄」と「見得」がある。
「見栄」とは「うわべを飾ること。体裁を取り繕うこと」、「見得」とは、歌舞伎役者の演技にあるような「ことさら自分を誇示す
る態度」のこと。 「自分には見栄はない」という人ほど、見栄っ張りの人。
要は、自分以上のものを見せようとすることである。収入以上のものを買ったり、無いものを有るように見せることもそうだ。
「自分に備わっている以上のものを示そうとして見えすいた努力をしてはならない」(シュペンハウエル)ことを肝に銘じていよう。人は仮面を長くつけておくことはできない。この典型は化粧。化粧が過ぎれば典型的な偽装となる。宝石や車などの持ち物を自慢する人がいるが、これらは本当の自分のものではない。
これを欲しがることは、単に自分に付着しているものを喜ぶ、刹那的(せつなてき)なもの。それを自慢する人は、付着物を誇る、つまり衣服のシミを誇ることと同じことになる。
不平不満というのもその辺の見栄、意地、嫉妬などがからんだ欲望がその源であろう。
そう思って、持ち主の顔や姿をよく見なおすと前とは違って見えてくる。本当の自分のものは、自分の力で成し得たことや自分の創意で造ったもの、あるいは自分の内面から発露する思想や考え方と思えば、不平不満というものは実は自らに帰することがいかに多いか。自らの持ち物を誇れる位になれば本当に“見得”を切ることもできよう。
「見栄」も「見得」も使いどころさえ間違わなければ、自分を鼓舞したり、勇気付けたり、高めたりする一つの方法になることを覚えていたい。カッコよく見栄を張り、程よく見得を切れる人は、貴重な人である。
不平不満も、自らの反省や意欲の増進へ繋がるものであれば大歓迎である。

「人の心は、うれしく事は、さしも深くはお ぼえにものにて、ただ心にかなはぬこと 
 ぞ、深く身にしみてほおぼゆる」
   (本居宣 長『玉勝間』)
「我が気に入らぬことが、
 我がために成る物なり」
   (山本常朝『葉隠』)