「人を知る法」第31条「大袈裟」
2012年11月25日(日) 
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 物事を大袈裟に考えるくせのある人、特によくない仕事を大きく考えたがる人と言うものは、憶病で、しかも事あれかしと何か騒動の起こるのを待ち構えている人だ。自分は憶病でありながら何か変わったことの起こるのを喜ぶ人である。その代わり、自分の事にはひどく用心深い人でもある。
恐いもの見たさの好奇心、女らしい心やり、気の配りには長けているが、決して肚の座った人ではない。

 物事を最上級で表現しないように心がけるだけでも、冷静になれることを覚えておこう。最近テレビでも「すごーい!」「さいこー!」などとタレントが騒いでいるが、あのような感動を表し方としては視聴者に伝える為のやむを得ない演技であろうが、言葉としては表現力の足りなさと、人間の軽さの表れでもある。
 出来るだけ最上級を使わないようにしてみると、最上級を使う場面というものは少ないものだ。それはそうだろう。最上級をいう場面はそれほど起こらないものだ。

 すると物事を厳しい見方をするようになると思う。出来るだけ誉めないようにする。
誉める時も表現を抑えた誉め方をすること。誉めすぎるのはよくない。何でも誉めたがいいと奨励している人もいるし、本もある。しかし、それは一般論であって、個々には、このことに対してこの人にはどの程度どのような表現で誉めたがいいのか?相手のプライドを傷つけずにどの程度ほめるのか?は難しい。
何でも凄い凄いと誉めて、失礼な誉め方をしているのをよくみかける。イチローや野茂投手がそうだ、褒められても殆ど喜ばない。それを自分の基準があるからだ。相手がそれだけに人であればそれなりの誉め方をすることを心掛けよう。
 それを適切にできるようになった時は、自分もそれなりのレベルに達してきたとも言えるかも知れない。

「万人に褒められんより、道知れる者一人に 褒められん事を思ふべし」
       (大蔵虎明『わらんべ草』)
 

 “誉める”行為は純粋な賞賛は少ない。せいぜい親が子供を誉める時か、実力が離れた(追いつかれる心配のない)者の成功に対して上位者が誉める時位ではないか? 普通の誉める行為には、必ずおべっか、お世辞、嫉妬、妬み、取り入ろうとする心・・・・が深奥に潜んでいる。ある人を誉める時、そんな
気持ちがないか? じっと胸に訊いてみると面白かろう。
 
「冷え切った心で温かい言葉を送られる位そ の言葉を受ける人にとって気持ちの悪い事 はない」
  (有島武郎『石にひしがれた雑草』)
「不当の賞賛、それは不当の非難よりも良心 にとっては重荷だ」
  (武者小路実篤『幸福者』)