『至誠の咆哮』
 今日のテーマ:「人に好かれる極致」
  2012年1月1日(土) 
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□好かれる極致
 人に好かれようとせずに好かれ、嫌われていヽものに嫌われる。
自分の好む所に自分をおいて好むものに取りまかれ、何の技巧も努力もなく気儘に振舞って嫌われない。自分より高いものに好かれて硬くならず、自分より低い者に好かれて汚されず、人の嫌悪を超越して悠々自分の仕事をし、生活を楽しむ。天もよく、地もよく、人もよく、すべてが自分のためにあると満足して愛して行く、こう言う好き方好かれ方がその極致だ。

簡潔簡明にして優美優雅なるこの極致に至る人は、人生の極意を会得した人、つまり人生の達人とも言える。多種多様な経験の蓄積を通じて、その真髄を会得し、悟りの境地に至った人は、何かより典雅なるものを常に求めてやまない。
地位や貧富は関係なく、誰でも高雅な人間になれると背中を押してくれる。「好き」とは、こころひかれるさまです。さらに「すき」の響きには、隙・数寄(風流)・透き・空き・数奇(波乱万丈・不運不幸)という深く多彩な意味がある。
つまり、好かれる人とは:
▽好奇心旺盛な人
▽心に隙のある人
▽数寄(風流)な人
▽透き通った人=純粋な人
▽誠実な人 
▽天真爛漫な人
▽数奇(波乱のある)の人
など、幅広い好き方・好かれ方があることがわかります。

吉田松陰は、
「至誠にして動かざる者は、
 未だ之れ有らざる也」

をもって生涯を貫き、高杉晋作を初めとした松下村塾門下生の心魂に革命への萌芽を
吹き込み、革命を促した。その想いが、刑死10年後に明治維新として成就したのである。
その「誠実であれ! Be(ビー) sincere(シンシアー)!」は民族・宗教・言語の違いを超越してどんな人にも好かれる世界の共通語。私は、10年にわたる海外生活や50
カ国以上を訪問し、異民族や異宗教の人々に接してみて、それを実感した。

私たちは、生まれつき個性そのもの。従って、その個性に合った多様な好き方・好かれ方を見出せば、誰しも人に好かれることができるであろう。人は一人では生きられないが、二人であれば愛し合うことによって生きることができる。多くの中にいる自分が人間なのだ。

99歳にしてなお思索に心を躍らせる哲学者中川秀恭先生は、
「人間とは、時間と永遠の間にあり、人間と人間、人間と自然、人間と歴史の間にある。人間は悲しい存在である。悲しみの中に喜びを見出すことに人生がある」と説く。

   「神 性」

人間は気高くあれ、
情けぶかくやさしくあれ!
そのことだけが、
我らの知っている一切のものと
人間とを区別する。
    
我ら知らずして 
ただほのかに感ずる
より高きものに幸あれ!
人間はそのより高きものに似よ。 
人間の実際の振舞いが
それを信じさせるようであれ。
 
自然は
無感覚なり。
太陽は善をも悪をも照らし、
月と星は
罪人にもこの上ない善人にも
同様に光り輝く。
 
ただ人間だけが
不可能なことをなし得る。
人間は区別し
選びかつ裁く。
人間は瞬間を
永遠なものにすることもできる。

人間だけが、
善人に報い、
悪人を罰し
癒し救うことができる。
またすべての惑いさまよえる者を、
結びつけ役立たせる。

気高い人間よ、
情けぶかくやさしくあれ!
うまずたゆまず、
益あるものただしきものをつくれ。
そしてかのほのかに感ぜられた
より高きもののひな型となれ!」
            (ゲーテ)