バリューインテグレーター(価値統合家)の『至誠の咆哮』
今日のテーマ:『人を知る秘訣』
第25条 「横のものを縦にもしない」
2011年12月17日(土)
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俺は働きがあるのだから・・・と横のものを縦にもしない男がいる。
又、共稼ぎの場合など、私はこれだけ働くのだからとてんやものやコンビニの弁当などで済まそうとするような女もいる。余分な働かは損だと言い、品を落とす事だと考えたり、威厳がなくなると言うのだ。
しかし、それは表向きの見栄で、実は怠け者なのである。見栄っ張りと怠け根性がどっかりと腰を据えている人間だ。人にサービスする事を下卑た行いだの品が下がるなどと思っている人間に偉い人なし。
相手の見栄がなんだか判っていれば、いよいよそれを尊重せねばならず、その見栄の正体がわからなければ常にさぐっていなければならない。見当ちがいをすれば機嫌を損ずる。
見栄のない人にはお世辞もいらない。正味の話ができる。約束しても、あとで心配の必要がない。 見栄のない同志では感情の無駄(むだ)もないし、物の無駄(むだ)もない。僅(わず)かのものを持ち寄っても常に豊かである。見栄のない人は人を豊かにする。
「みえ」には「見栄」と「見得」がある。「見栄」とは「うわべを飾ること。体裁を取り繕うこと」であり、「見得」とは、歌舞伎役者の演技にあるような「ことさら自分を誇示する態度」のこと。 「自分には見栄はない」という人ほど、見栄っ張りの人がいる。要は自分以上のものを見せようとすることだ。収入以上のものを買ったり、無いものを有るように見せることもそうだ。それは長続きせず化けの皮が剥がれるのは、まさに時間の問題。人は仮面を長くつけておくことはできない。持ち物は本当の自分のものではなく、今、単に自分に付着している刹那的(せつなてき)なもの。それを自慢する人は、付着物を誇ることになる。つまり、衣服のシミを誇ることと同じ。
自尊心が少しあればきっと恥ずかしく思うであろう。そう思って、持ち主の顔や姿をよく見なおすと前とは違って見えてくるにちがいない。
本当の自分のものは、自分の力で成し得たことや自分の創意で造ったもの、あるいは自分の内面から発露する思想や考え方などだ。小さくてもいい、それを誇れるようになると本当に“見得”を切ることもできよう。
しかし、おろかな行為と判ってはいても、時に誘惑に負けて見栄を張り、あとで恥ずかしい思いをすることも、人間故に、ある。そんな見栄は期待した効果は得られないどころか、逆に悪化するものだ。とはいっても、見栄を張ろうとすることを否定することはない。なぜなら、「見栄」はいわば「意地」や「負けじ魂」の別な形ともいえるからだ。
「ここはその位の見栄を張ってやろうではないか!」という
態度は、ある意味では必要な自負心に近いものではないでろうか?
それは、時には「見得」とも呼べる。子供の頃から考えると、誰でも何度か「見得を切ったこと」を思い出す。ちょっと上手にお絵かきして、お母さんに誉められた時、運動会で一番になった時、凧(たこ)揚げでもっとも高くあげたとき、学芸会でいい役をした時・・・それに大人になっても写真を写るときには、だれもがポーズを作り、見得を切る。誰しも自分が日々演じる役どころで、適切な見得を切りたいものだ。
「見栄」も「見得」も使いどころさえ間違わなければ、自分を鼓舞した
り、勇気付けたり、高めたりする一つの方法になることを覚えているといい。カッコよく見栄を張り、程よく見得を切れる人は、周りの人にも何かさわやか感を残し、少しでも力を与えていく人のようだ。 真に見栄のない人は、貴重な人である。
「見得も切れない人は嫌われる」