『人に好かれる法』第94条
「人を見て手を変えない」
2008年10月26日(日)
NO.184
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第91条 人を見て手を変えない
人を見て裏がえすような口振りを平気でやっている人がある。誰でも今度は自分の番だと、その人の手を読むようになる。身分や金のあるなしにかかわらず、誰にでも同じに心を変えない人、こんな人はそれだけで立派に見える。
特にひけ目のある人に親切なのは、見ていて美しい。こんな人は,知らず知らずに、多くの人々から信用され、好感を持たれる。
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私が30代の前半に2年間中東カタールに住み、イスラム教に浸った際、その教えの一つにやはり「喜捨」があった。「喜捨」とは、仏教用語にもあり、「喜んで財物を寄進し、また、貧者に施すこと」と言う意味です。要は「豊かな人が豊かでない人に金銭あるいは物を施すこと」。金持ちは、義務として喜捨を行い、貧乏人は、権利として喜捨を受ける。頭を下げる
というより、時には傲然たる態度において施しを受けるのです。
お坊さんの「托鉢」とは、僧が鉢を持って家々を回りお経を唱えながら、米や銭の施しを受けること。つまり、貧者が居なければ富者は義務を果たすことができず、困るであろうから、施しを受けてやっている立場なのです。人に恵む行為は、富者に優越感をもたらし、しかも義務を果たす安堵
感を味あわせるからです。
物事はどんな場合も相対的な関係、およそいかなる物でも物として表と裏がないものはありません。
新渡戸稲造も「つねづね、なにごとにも、表と裏と、外と内と、皮と肉との別あると心得ておきたい」(『自警録』)と訓えています。
その際に、一般に表が善く、裏は悪いものと考えがちです。そして、すぐその是非、曲直、善悪の区別を結びつけて、人の見方やものごとの処し方を誤ることも多いのです。
我々は、誰しも物を貰うより、あげるほうを好みます。優越な人、つまり、富者から貧者へ、知脳の優れた者から劣った者へ・・・いかなる場合にも貰うこともいやなものですが、物を呉れる人の心持も、必ずしも美しいものではなく、時には、裏つまり下心あっての施しになり、醜いものにもなるのです。
「無益の事をなして、宝を多く費やすを、陰徳と云うにあらず。只、我が分限に従い、力の及ぶ程、施しを恵むべし」(貝原益軒『五常訓』)
とあり、身の程に応じて施しをするのが本当の陰徳なのです。不幸な人を助けるのなら、人目につかないように、ひっそりと裏口から金品を届けるべきでありましょう。
しかし、それも自己満足したい心がさせることだとすると、人のためと大義名分を唱えつつも、実は、自分可愛さのため。それを「自愛」というのです。
おごりとケチはいずれも大欲の心からでるものです。面は変わっても、心根は同じとも言えます。
大黒様はいつもお金を持っていますが、何時も小槌を振り上げています。つまり、努力を示しているし、そこに愉快もあるのです。ただ金を持っているばかりでは福の神になれません。それを、どんな人にも分け隔てなく、施すからです。相手によって、態度を変えることはしないので、いつも崇
められるのです。相手の自我を認め、受け入れているとも言えましょう。
自我がない人は、相手に振り回される人です。自我を把握している人は、他人の我に影響を受けることはないし、あっても少ないものです。
世の中は、自我と自我の戦いであり、協調であり、共存なのですから。
パスカルは、自我は自愛と同じであるとし、自分の欠陥を認めることだというのです。
「自愛。――自愛の本性、この人間の『自我』の本性は、自分だけを愛し、自分だけを考えるところにある。
だが、人間は何をしようとしているのか?
●かれは自分の愛している対象が欠陥と悲 惨とに満ちているのを、どうすることも できない。
●かれは偉大であろうとして、自分が小さ いのを見る。
●幸福であろうとして、自分がみじめなの を見る。
●完全であろうとして、自分が不完全に満 ちているのを見る。
●人々の愛と尊敬の対象との対象であろう として、自分の欠陥が人々の嫌悪と侮蔑 とにしか値しないのを見る」
(『瞑想録』)
コミュニケーション力とは、これらの接点において、慎ましく自我を出し、優しく他我を受け入れ、お互いの尊厳を容認し、尊重してそれを共に生かし、それぞれの立場に鑑みて、ものごとを善処することでしょう。そのような人は、必ずや人に好かれるはずです。
人に好かれるとは、まず、他人の自我を
100%受け入れてあげようという、一時的な自分の強い自我の隠蔽から出発することです。それから、自らの自我を出して調整するところに謙虚さがあります。思いやりの発露がそれに伴い、程よい関係を作り上げるのです。
そのように培われた関係が、望ましいコミュニケーションではないでしょうか。
そこで、自我は決して隠せないと思うようにお勧めします。
「心にある思いを隠す方が、
心にない思い を装うよりも難しい」
「自分は人に好感を与える、という自信 は、えてして人を不愉快にする決め手に なる」
(ラ・ロシュフコー)