『至誠の咆哮』NO.180
今日のテーマ:『人に好かれる法』
第89条 虫のいどころ
虫のいどころのたえず変わる人がある。僅かな時間で、曇ったり晴れたりするむら気な人というものは、よほど身近かにいないと調子が合わせられない。まずよい交際や仕事はできない人だ。こういう人は、はれものにさわるように気味の悪いいものだ。平らな心、いつも同じ調子の人でなくてはならない。いくら悪気がなくても、向かい合うほうはこれぐらいいやな人はない。
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人間の原点は生まれたての赤ちゃんである。赤ちゃんは、人として生まれてはいるが、まず動物として生まれたのである。
赤ちゃんほど虫のいどころの絶えず変わる人はいない。哺乳類として母親の体内で10か月栄養の補給を受け、だんだんと人としての形になり、そして出産される。「オギャー」と世に出た瞬間から自我の欲求を思いっきり発散する。これほどの自由人はいない。母親を始め、父親やおじいちゃん・おばあちゃんなど、回りは赤ちゃんの一挙手一投足にはらはらどきどき。
赤ちゃんは天真爛漫であり、無邪気であり、自由奔放、気儘そのものである。
そういえば聞こえはいいが、実は動物の本能である。成長のためには、自ら食べて生存することだけを考え、周りのことは何にも考えない。このままだと「狼少年」になってしまう。そこで、人間としての躾が始まるのである。
食べて生きることから、人間としてやって良いこと悪いことを教え、し付け、善悪の判断能力を付けさせる。社会的動物として人と人との応対、接し方を教え込む。その際、相手の年齢・立場における言葉の使い方も同時並行して覚えさせるのである。
そのような強制的な躾によって、人は本来の自由奔放で、勝手な動物から脱却し、喜怒哀楽を状況に応じて統制し、態度や発言を統御し、社会生活を円滑に行うことができるようになる。このような経過を辿ってようやく人は、「自分を司る」ことができるようになる。そうなって初めて「大人」になるのである。つまり、大人=社会人は、喜怒哀楽を抑制し、状況に合わせて司
ることによって成立することになる。
そこで、虫のいどころの絶えず変わる人というのは、いわば赤ちゃんに近い人である。人間としての躾や教育が適切に行われていないか、本人が身につけなかったものだ。
自らの感情の統制・抑制の程度は、人間という商品の熟成度が高いといえよう。人生は人間という商品作りでもある。顧客(回りの人)に役立つものが優れた商品価値を持つものである。まずもって、周りの人に煙たがられるようでは、商品価値はないものといえよう。遠くの人でも寄って来てくれるようになる人物は、その分価値が高い。
最近、「切れた」という言葉がよく視野に入る。ネット社会になり、人と人との情感の通じ合う関係から、親子関係においてさえ、無機質な人間同士のやりとりに終始する嫌いがあるのだ。
私はかねてより、「HTの二乗」の大切さを叫んでいる。最初のHTとは、ハイテクだ。つまりインターネットを始めとした高度技術だ。しかし、もう一つのHTが重要だ。それは「ヒューマンタッチ」である。ITの発達に対し、その二乗倍にて、このヒューマンタッチのHTの重要性が増大する。
喜怒哀楽のある人は人間的であり、感情の抑揚は自然なほど人の心を打つものである。表情にあまり表さない人は、極めて優れた人物か、極めて冷酷な人物であろう。前者は高僧、後者は殺人者と見なせよう。高僧になるべくもない凡人は、喜怒哀楽を適度に表わし、感情の抑揚を適切にあるいは節度をもって司ることができるように努力することである。
「非常のときに身を処するのは、日々の平凡の心がけによる。春風に誘われ、三日見ぬ間に開く桜は、風に会うて狼狽して開くのでなく、前年の冬から、厳寒を凌いで蕾を養うたからである。昔の武士が戦場に臨み、命がけの勝負をしたのは、平生、木刀をもって木像(でく)を相手として仕合し、鍛錬した結果である。平素の修養があればこそ、非常の時の覚悟が定まる」
(新渡戸稲造『修養』)