バリューインテグレーター(価値統合家) の『至誠の咆哮』
今日のテーマ:
『人に好かれる法』第87条
「生活感情」
2008年6月7日(土) NO.178
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第87条 生活感情
その人の感情の持ち方というものは、急に変えるというわけにはゆかない。人が失敗した時「ざまを見ろ」と感ずるような習慣の人と、とにかく気の毒だとか哀れだとかの同情が先きに立つ人と大変な違いがある。その人の生活感情が、温かく柔らかく品が良いか、冷たく残酷で排他的であるかによって、人に好かれる嫌われるの道は、わかれるに決まっている。
どんなにごまかしても、とっさの間に合わない。日々の自己修業に待つより仕方のないことだ。
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スポーツに没頭している人はみな、何かの目標に向かって厳しい練習に耐え、日々その遅々として進まぬ技術の向上、タイムの短縮、距離の拡大など悩む。中には、「もう止めよう」と自らの才能を見限り、新たな道を模索しようと自らにその決心を迫っている人もいよう。
新渡戸稲造は「大事に処する道は小事の修養にあり」(『修養』)という。日頃の心掛けさえあれば、大事に際しても自若としておられると、小事の蓄積によって初めて大事を行う力が養われるのである。そのような日頃の修養は、物事の軽重によって,それをどのように処理するかの判断の訓練にもなろう。
その過程においては必ず人との遭遇がある。何事もコトだけが往来するのではない。常にヒトの交通があって初めてコトが発生するのである。とすると小事を重んじることは、そのまま小人(しょうじん)を重んじることと同じである。
人は他人の失敗、不幸を耳にした時、何らかの感情が動く。その感情は同情もあるが、無情もある。さらには、同情する心の中をよく探ってみると、その裏では笑みをこぼすこともある。それによって嫉みが和らぎ、その結果と先行きにいいことがありそうな前途への期待を起こさせるようなものもある。
そこに嫌な自分の隠された部分が露呈するのである。どの位まで真の同情の心が生まれるかによって、日頃のその人への好意の度合い、愛の深浅が露わになって出てくる。
他人の失敗や不幸を心底から悲しむことができることは、真に愛する人に対してだけだと言っても過言ではなかろう。愛する妻、可愛い子供、愛する親、可愛い後輩、敬愛する師匠や先輩などへは、その愛がほんものであればあるほど、心より同情する。しかし、形ばかりの多くの友人、ライバル的気持ちをいだく友人・後輩、疎遠になった人たち、ほとんどの仕事上のみの儀礼で済ませることのできる人たちに対しては、むしろ、よかった!という感情になるのは自然であろう。
フランスのラ・ロシュフコー侯爵は「われわれに起きる幸不幸は、それ自体の大きさによってではなく、われわれの感受性によって大きくも小さくも感じられる」と言うように、幸不幸の報に接した時の、その人が表わす微かな表情や態度、発言・・・の内容やその変化から、かなりの本心を悟ることができるのである。
セネカも「われわれはわれわれのものを他と比較しないで喜ぼう。自分以上の幸福を見て苦しむ者は決して幸福になれない。いかに多くの者が汝よりも先になっているかを見たら、いかに多くの者が汝よりも後れているかを考えよ」と言っている。嫉みを退治する手引きをしてくれている。
北京オリンピックに向けて、世界中のアスリートが凌ぎを削って練習している。日頃の心掛けとその成果が本番になって開花するのである。もちろんそれくらいの練習は誰もが行っているわけで、それだけで勝敗が左右されるわけではない。別の運命的な何かが働くことによってわずかな差で天と地の差異が生まれるのである。
それほど厳しい勝負において、ライバルの失敗やけがなどの報に心底同情する人はまず世の中にいまいであろう。むしろそれを願うのが人情だ。従って、笑みや悲しみの表情に潜む微妙な真の感情・心情をよく感じるようにしよう。
ショウペンハウエルは「友が真の友か否かをためすうえからいって、真剣な助力と大きな犠牲とを必要とする場面に次ぐ最善の機会は、今しがた見舞われたばかりの不幸を友に報告する刹那である。そのとき、友の落ち着き払った冷静さ、あるいは一瞬の付随的な動きによって、『最善の友の苦境のなかに、われわれは常にまんざらでもいやでもないようなものを何か感じさせら
れる』といったラ・ロシュフコーの有名な言葉を裏書きすることもあろう」
(『幸福について』)と人間の嫌な心情を明快に述べているのだ。
以前、自分がこんな状況におかれた時、何か心地よげな微笑の発作をどうにも抑えられないこともあったことを思い起こし、その時の感情の動きに嫌悪するものである。とはいえ、今後同様な状況になった時には、同じことが起こり得ることは、恥を忍んで言えば、自らに対し、禁じることはできないであろう。自分や他人の不運・不幸・災難・避難・・・何でもいい、それを告げることによって、多くの場合、相手の機嫌がよくなることは確かであろう。
いかにも、人間の本性をあらわしているといえる。
「人のたゞ負けじと思ふ心こそ
やがて我が身のあだとなるなれ」