今日のテーマ:『人に好かれる法』
第85条「腑に落ちない」
心では憎いと思いながら、愛していると言い、軽蔑しながら尊敬すると言い、まんまとごまかしに成功したとほくそ笑んでいる人がある。だが人間は、勘というものがあるから、なんとなく腑に落ちない気分を持つ。辻褄の合わないことが、最後まで通るということはない。すっかり信用したとすれば、幻滅もはげしい。それに比べて感情と表現がいつも一枚になっている人の言葉
には、いつも疑問がなく、ひっかかりがなくて、安心感を持って交際できるものである。
―――――――――――――――
近年、赤福事件など食品表示偽装事件などの企業不祥事が頻発し、社長の緊急記者会見をテレビで見ることも多い。その際、記者の厳しい質問にどのように答えてよいか、分からず、黙ったり、どぎまぎして、社長の目が宙を舞っているのを目にする。それによって、本当のことを言っているのか?を知らず知らずに推し量っている。あるいは、その時の表情やちょっとした仕草
から、“少々嘘を言っているな”とか“どぎまぎして信用できないな”などを感じとるのである。
「時として外見は実体とはおよそかけ離れているもの。世間はいつでも上面の飾りに欺かれる」(シェークスピア『ヴェニスの商人』)のである。
各業種特有の事件・事故などに加えて、情報漏洩事件などは、企業規模の大小、業種の違い、歴史の有無にかかわらずいつでもどこでも起こりうる。そこでこのような事態を想定して、最近、広報の仕事の一つとして、社長など経営幹部にメディアトレーニングを実施することが多くなっている。メディアを前に発表する必要が起こった場合には、公式発表「プレスリリース」や、どんな質問が飛び出してもきちんと応答できるように「想定問答集=Q&A」を準備することになる。それをいかに万全につくるかどうかがポイントになるのだ。実際の模擬体験でそのリハーサルをするのであるが、想定している質問にはきちんと答えることができるが、想定外の質問が出た場合に
は、リハーサルであっても「目が宙に舞う」ことになる。次に、その回答を考えて2回目のリハーサルを行うと、自信を持って答えることができる。
それから分かるように、「人は、確信持ったことしか相手の目を見て答えられない」ことである。それは、自分の不義を咎められた時、ドギマギすることを想定すると良く分かるであろう。
記者がきつい質問、鋭い質問、厳しい質問をしたり、時に怒鳴ってみたりする理由は、勿論本来訊きたいことを質問していることもあるが、実はその反応が見たいのだ。質問された時の態度、表情、仕草・・・をよ~く観察しているのである。実際の回答内容に、それらの非言語情報(ノンバーバルインフォメーション)を加えることによって、より確かな記事、信憑性高い内容、真実に限りなく近いことを明らかにして、読者、視聴者に報道しようとするのである。
非言語情報をいかに読み取るか? またどの位解読できるか?は、人それぞれの感性の働きの強弱によるところが大きいものである。言っている内容と、その仕草、態度、表情がどうもおかしい、つまり「腑に落ちない」と思ったら、まずその方が7-8割方は正しいと考えてもいいであろう。
「振り込め詐欺」などに遭うのは、その感性が鈍っていることでもある。「どうもちょっとおかしい!」という感覚の劣化、身を守る危機意識の退化が、人が付け入る隙間を広げていく。良からぬ輩はそれを見逃さない。なぜなら、それを見出す感性をいつも研ぎ澄まし、甘い人間を探しては試し、試し徐々にその実力を磨いていくのだ。
人間は、太古からその優れた頭脳により、予知能力を発揮し、かつ武器を持ち、あらゆる危険から身を守る術を開発することに余念なく、他の動植物と異なって、天敵は、天災しかいない。しかし、その分、危機への感性が鈍っていることを自覚し、善い本能を再開発していく必要があろう。
そこで、つねに確信持って言動できる人物、その言動が一貫している人物は信頼されることになる。
セネカは「私は肉眼を信じない。私がもっているのは、もっと立派な、もっと確実な眼光であって、それによって私は真と偽を区別することができる。魂の善は魂に見付けさせるがよい」(『人生の短さについてー幸福な人生について』)とそれぞれ心眼で物事の真偽を確かめつつ、日々を送ることを推奨している。