『至誠の咆哮』NO168
「人に好かれる法百ケ条」
第81条 負け上手
失言した時、失敗した時、勝負に負けた時、あっさりと軽く、明るく、柔らかい恐縮を示すことのできる人、あわてたり、口惜しがったり恨めしそうな表情の少しもない人、負けて相手を重苦しい気分にしない人は誰にでも好感を持たれる。勝っておごらず、負けてひるまない、肚のできた人である。誰でも勝った時は立派だが負けると醜態をさらけ出す。
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小さいころから大相撲が大好きでした。二人で簡単にできる遊びだったこともあって小学校の頃、休み時間になると、運動場や廊下などに棒切れやチョークですぐ円を書いて相撲取ることも多く、主な遊びの一つでした。小学生のころは初代若乃花のファン。なぜなら小さな身体なのに「土俵
の鬼」と呼ばれるほど滅法強く、特に大きな人を大技で投げ飛ばすので、痛快でした。また「かかとに目のある若乃花」と言われ、粘り強く、ピンチに動ぜずよく逆転勝ちするのを見て、身体の小さい私の憧れでもありました。相撲の好きな理由の一つは、勝負後の態度や表情、それにインタビ
ューのあり方です。皆一様に無骨で、口下手で、ぶっきらぼうなのです。
勝った力士も喜んでいる風でもなく、負けた力士も悔しがらず、勝っても負けても表情を変えず、インタビューにも淡々として答える。横綱が優勝を祝福されても言葉少なく「おかげさまです」「次回も精進を重ねて頑張ります」などと怒っているのかとも思う位の場面もありました。
私にとってそれは、喜怒哀楽をよく表す自分の欠点矯正の鏡、「ああいう風にありたい」との善い見本でした。私には、相撲の無表情は、敗者への思いやり・労わりの表れだと思えたからです。「心技体」の充実を目指す大相撲の「心」は、孔子の「恕」なのです。その完成した姿が横綱です。言葉で飾ろうとせず、土俵上の態度、普段の生活、会話での対応が心技体の究極の姿だったと思います。
ところが最近はどうでしょう。今の横綱は、その気配は微塵も感じられず、敗者への労わりなどあろうはずもない態度です。そんな横綱の姿勢は全体へ影響を与え、大相撲全体が殺伐とした雰囲気が漂い、何の床しさも感じられないようです。しかも、それを咎める人もいないとは、実に情け
ない。企業も同様。コムスンを初め、トップのあり方がその企業の心なのです。盛者必衰。企業の永続は「至難」であり、人は「必死」なのです。勝者の謙虚さは、敗者の時には強靭さと化します。
佐藤一斎も「得意の時候、最も当(まさ)に退歩の工夫を著(つ)くべし。一時一事も亦(また)皆(みな)亢(こう)龍(りょう)有り」(思いが叶った時こそ、一歩さがる工夫をすべきである。時間的にも、事柄的にも昇りつめた龍、つまり尊貴を極めた者は、退歩を考えておかないと必ず敗滅の悔いがあるものだ)と警告しています。
勝って奢り、負けては歯軋・・・
だから嫌われる
勝てば誇り、さらに驕り、労わらず・・・
だから嫌われる