第七十二条 好き嫌いを現さない

 よく、あいつは嫌いだ、これはまずいといちいち嫌いを大げさに、渋面つくっていう人がある。これくらい人を遠ざける癖はない。大ていは好きなように振舞えるくらいでなくてはいけない。
 嫌いでどうすることもできないものは、どたん場で捨てればいいのである。あの人は嫌いだということは、その人に似た人を全部遠ざけることである。

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 もともと動物の好き嫌いは食べ物の嗜好から起こる感情ですが、その本質は、その食べ物は身体に無害なのか? そして、良いものかの判断から起るものです。それは、当然人間にも本能として備わっている資質です。

 他人との会話を省みれば、その大部分が人・物・出来事・・・の「好き嫌い」が話題になっていることが多いことに気がつきます。直接的ではなくても、根底には人それぞれの好き嫌いの感情が奥深く流れているのです。

 それが表面に出ると、いわゆる「怒り」「蔑み」「悲しみ」「喜び」のような喜怒哀楽となって、表情や動作に現れてくるものです。
 会話の中味を「好き」と「嫌い」という二つの範疇で分けてみると、どちらかというと「嫌い」の話が多いように感じますがいかがでしょうか?

 「ワガコノム亊ハ、人モ亦必ラズコノムモノナリ。ワガ心ニキラフ亊ハ、人モ亦必ラズキラフモノナリ」(『五常訓』)と貝原益軒が言うように、私たちは他人が嫌いという言葉を嫌うものです。例えば:

▽ ある上司の悪口
▽ ある人物の悪口
▽ 嫌いな有名人
▽ 自分の嫌いな食べ物
▽ ある人の行為の中でイヤだったこと
▽ 悪いニュース(事件・事故その他)
▽ 有名人のゴシップなど取るに足りない話
▽ 自分の健康状態や今の気分
 などでしょう。

 これらに関しては、話している本人は、得々とした気分で、少々誇張を交えて言い挙げるので発散になっているでしょうが、聞かされている方は、面白くも何ともなく、我慢して聞いているだけで、聞きたいと思っているわけではありません。なぜなら、ほとんどがこちらの嫌いに通じるものだからです。それ以上に聞いても何の得にもならないし、嫌な気分になるだけだからです。相手が話している間は聞いている振りをして、実際には自分が話す次にテーマを考えたり、あるいは、まったく別なことを思案したりしているのです。

 従って、自分では、そうならないように心がけなければなりません。そのためには、嫌いなもの、気に食わない出来事、イヤな人、好みでないこと・・・が目の前に訪れても、イヤな思いを抱かず、嫌な顔をせず、いやな話を避け、嫌々ながらの行動を取らないことです。
 
 太古の昔から、人生は思うようにはいきません。私たちの日々は、好むと好まざるとに拘らず、嫌なことだらけです。そしていろんな困難や障害が連続して起るものなのです。そこで、それに怒っても仕方のないことです。なぜなら物事のほうではそんなことにおかまいなしだからです。

 古代ローマ皇帝で哲人のアウレーリウスは、こう言って激励します。

 「すべての出来事は、君が生まれつきこれに耐えられるように起るか、生まれつき耐えられぬように起るか、いずれかである。ゆえに、もし君が生まれつき耐えられるようなことが起ったら、ぶつぶついうな。君の生れついているとおりこれに耐えよ。
 しかし、もし君が生まれつき耐えられぬようなことが起ったら、やはりぶつぶつ言うな。その事柄は君を消耗しつくした上で自分も消滅するであろうから。尤もいろんなことは、すべて君が生まれつき耐えられるはずのものであることを忘れてはならない」

 また、ショウペンハウエルも次のようなこと:

▽ 日々の煩わしい出来事
▽ 人間の交際に見られるけちくさい軋轢
▽ 取るにも足らぬ不快は事件
▽ 他人の無作法
▽ 口さがないおしゃべり  ・・・・・

が身の回りで起きたら「そういうことに対しては不死身にならなければならない。すなわちそういうことを感じたり、まして気に病んだり、くよくよ考えたりしないようにしなければならない。こういったことは何一つ自分に近づけないようにし、道の小石のように突きのけなければならない。
これを取り上げて心の中で熟考したり、思案に思案を重ねたりしては絶対にならない」と忠告するのです。

 「ひとごとに、わが身にうとき亊のみぞ  好める」(兼好『徒然草』)
   (人は皆自分に似合わないこと
    ばかり好んでいる)