第五十六条 心を開かせる人
怒らぬ人間くらい親しみ易い人はない。誰でもついてくる。よくよく考えてみれば怒る必要のあるような事は滅多にないものだ。昔から「賢い人は無暗に怒らない」と言われている。怒らない人の前では遠慮がなくなる。心をひらいて話ができる。怒りっぽい人のそばから人がはなれる。
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人間には誰しも喜怒哀楽があります。動物にはなく、人間固有のものです。この四つのなかで、もっとも好ましくないものが怒ることです。あとの三つの内、とくに喜樂だけで人生を終えることができれば最高だともいえるし、哀しむ心は、思いやりの心でもあり、人生に深みと心の豊かさを与えるものでしょう。
それに対して、怒りはどうか? ローマ皇帝セネカはその著『怒りについて』において、怒りを「短期の気狂い」だといいます。怒りは「自らを抑えることもできず、品位を汚し、親しい間柄を忘れ、怒り出せば執念深くて一途に熱中し、道理にも忠告にも耳を閉ざし、つまらない問題にも興奮し、公正真実を見分ける力はなく、言わば、自らが押し潰したものの上に砕けて散る破滅に似ている」と詳説。
また、「怒りは自らを公然と露わにし、顔色に現れ、その度が高まるにつれて、ますます煮えくり返るようになる。どんな動物でも、身に迫る危険に向かって立ち上がるや否や、怒りの様相がまず現れ、その凶暴性を発揮するではないか。他の感情は出現するが、怒りは噴出する。
アリストテレスは、怒りは苦痛を返報しようとする欲望であると言う。人間は相互扶助のために生まれたが、怒りは相互破壊のために生まれた。
前者は結合を望むが、後者は離反を望む。
前者は利することを望むが、後者は害することを望む。
前者は見知らぬ人々をも助けようとするが、後者は最愛の者達をも襲おうとする。
前者は他人の利益のために自分を消耗させようとさえしているが、後者は他人を追い出すことができるなら、あえて危険を冒そうとしている。
怒りは報復に熱心であって、そのような欲望の存するところが、最も平和な人間の胸のなかであるとは、人間の本性に最もそぐわないことである。人間生活は善行と協調の上に成り立っており、脅迫によってではなく相互愛によって、睦み合い助け合うために結び付けられているからである。
最もよい方法は、怒りの最初の刺激を即座に退け、その芽生えにさえも抵抗して、われわれが怒りに走らないように努力することである。というのは、怒りがわれわれを邪道に導き始めると、正道に戻ることは困難だからである。
怒りは全く移り気である。実際、怒りは自分勝手のことしか考えず、気まぐれに判断し、何事をも聞こうとはせず、弁護の余地を認めず、襲いかかったものを離さず、たとえ自分の意見が間違っていても、捨て去ろうとはしない」
と実に詳細な分析を試みています。
フランスのアラン「定義集」にも怒りについての記述があります。
「怒りは力の顕示である。恐怖の結果と同じように、おのずと生まれる抵抗の力、挑戦する力の顕示。従って、臆病な者にはしばしば、誠に滑稽な怒りが見える。それは怒りの最も低いものである。それはもはや、恐怖からでてきた反射に過ぎない。そこにはいつも、恐怖から生まれた大なり小なりの屈辱感と御しがたい、いらいらした勇気のしるしを増大させる一種の喜劇が、
結び付いている」
このように、紀元前から、怒りに関する研究は盛んでした。いずれにせよ、怒りを抑えることは人間として高度な精神の仕事だということです。それは、どんな場合も、強い意志さえあれば、抑制可能だからです。そうすることによって、無用の争いが表面化しないばかりか、協調・相互扶助を促進することになります。
人間本来の知性を少し活かせば、怒りという獣性を閉じ込め、全ることができるばかりか、人に優しさを分け与え、人が集まる魅力を振りまくことになるのです。
吉田松陰は、門下生に決して怒らなかったといいます。そこには窮極の愛、優しさ、向上を促す期待があったのでしょう。
名句名言もあります。
「ひとは軽蔑されたと感じたときに最もよ く怒る。だから自信のある者はあまり怒 らない」 (『人生論ノート』三木清)
「イカリト慾ヲコラエザレバ、善ハ行ナヒ ガタシ」(『五常訓』貝原益軒)
「人を勘(かんが)ふるのことは、心の中
に怒るといへども、心に思ひて口に出(い だ)すことなかれ」
(『九条右丞相遺誡』藤原師輔)