「人に好かれる法百ケ条」第五十二条をお送りします。

 第五十二条 なんでも引き受ける

 人に物を頼まれたら大ていのことは快く引き受ける。一応必ず相談に乗ってやる。それを出来るだけ親切に実行してやる。やれない部分は、すぐに理由をのべて謝るがいい。あまり、考えすぎて、断ってばかりいる人には物が頼みにくい。たのみに来ないばかりでなく、近づきにくい。
 物をたのみにも、良い話も、持って来なくなる。甘いものには、いろいろの幸運が集まる。
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 「なんでも引き受ける」人には、二通りあると思います。一人は、出来るかどうかまだ不明なるも、とにかく話を聞いてみようという人。もう一人は、出来ないと思うがなんでも引き受けたがる人です。前者と後者の違いは、前者が実力も人徳も自他共にある程度認めている人、後者は、実力がもうひとつ伴わないが、お人よしのために引き受けてしまい、あとでしまったと後悔することもありましょう。
 いずれの場合でも、話を聞いてあげるだけで相手は喜び、その人を好きになるものです。そして、実際に頼まれたことがうまく実行できなくても、それはそれでいいのです。相手は話を聞いてくれただけで、心が和み相当の問題は軽減しているケースが多々あります。
 もちろん、頼まれてじっくり話を聞き、場合によっては自分が率先して手を下し、自分に出来なければ、それが出来るであろうと期待できる人物を紹介してあげられるような人はさらに好意をもたれ、それが尊敬へと昇華していくものです。

 幸田露伴の『努力論』に、惜福・分福・植福の話があります。「惜福とは一人で福を惜しみ、分福は自己の福を他人に分かち加うるをいう。一瓶の佳酒があるとし、それを他人とともに飲めば自他共に酔いを得る。常に自己の福分を分かち与うるの覚悟と行為とを有する時は、自然とこれらの人々はその主人のために福運の来り至らんことを望むのであるから、人望の帰するところは天意これに傾く道理で、その人は必ず福運の来到を受くる」と。(分福の上には植福といって人を育てる福あり)

 なんでも引き受けようとする人は、自分の出来ることを分福することと思えます。つまり、自分の能力は自分の力だけで備わったものではない。天賦の才もあり、また本人の努力にもよりましょうが、大半は、親兄弟・学校・職場の皆さまから教わったものです。すると自分に備わる福は、実は共有財産ともいえましょう。その能力を最大限に人のために活かすこと。これが仕事であり、お客様サービスにもなるとともに、自己実現の法則でもあります。

 ショウペンハウエルが「人間の能力は使用されることを求めてやまず、人間は使用の成果を何らかの形で見たがるものである」(『幸福について』)と言っているのも同じ意味であります。みな、それぞれの立場で人に施すこと。自分の能力に恥ずかしくないように十二分に実力を発揮してあげること。それが他人に与えられる恩恵であり、かつ使用されることを求めてやまない自分の能力への最大の敬意でもあります。
 頼まれたら受けて立とうとしてみることです。何らかの役に立つ自分の能力を引き出そうとやってみましょう。そして本条にあるように、出来ないことは無理をせず、率直に謝ればいいのです。それだけでも相手の好意の眼差しに少しばかり心豊かになることでしょう。

  功徳のある人のところには
  人は集めなくても、集まってくる。
  香しい花は遠くにあっても
  蜂は雲のように集まってくる。
   (チベットの『サキヤ格言集』)